
ドローンパトロールで人の命も樹海も救え
富士山北麓に広がる美しい原生林、青木ヶ原樹海。
溶岩の上に形成された独特の地形に育まれた苔むす森は、
周辺の富士五湖とともに国内外から多くの観光客を集める山梨県の貴重な観光資源となっている。
しかし一方で、小説に端を発する複雑な経過も併せ持ち、
2023年の統計によれば、発見地ベースでの山梨県の自殺死亡率は全国ワースト1位。
24年も2位と高い水準が続いている。
そうした状況を打破すべく、現在、二つの対策に挑んでいる。一つは命を救う「守り」の対策としてのドローンパトロール。もう一つは樹海の魅力を発信する「攻め」の対策としての樹海ウォークだ。
■この記事でわかること
✔ 富士山北麓の青木ヶ原樹海で、ドローンによる夜間パトロールを開始した
✔ 赤外線カメラを搭載したドローンで人を感知し、保護につなげた事例も
✔ 樹海の本来の魅力を発信する「樹海ウォーク」には毎年約400人近くが参加、人気イベントに
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樹海で自殺する人の大多数は県外から
青木ヶ原樹海は「富士の樹海」とも呼ばれ、富士箱根伊豆国立公園に属する。独特の地形と森の神秘的な雰囲気から、多くの観光客を魅了している。しかし、その美しい景観とは裏腹に、県外から、複雑な悩みを抱えた方の来訪が絶えない。
県福祉保健部健康増進課 心の健康担当 主査の今宮晃典さんは、「県内で発見される自殺者数は、人口規模から見ると他県に比べてかなり多くなっています」と言う。

県外から来て、樹海で自殺する人が後を絶たないのがその要因と見られている。県内で発見された自殺者の約3割が県外者及び不明となっており、その比率は全国でも突出して高い。
対策として、日中は富士河口湖町と鳴沢村が委託した警備会社のパトロール員3名が365日体制で巡回を行っている。しかし、夕方から樹海を訪れる人が多いという情報もある。
「日中、下見に来た方が、夕方に再度訪れて、樹海に入ってしまうという実態がありました」(今宮さん)
これまでも山梨県は樹海での自殺防止に取り組んできた。パトロール員が年間多くの自殺企図者※を発見し保護につなげている。しかし夜間パトロールの実施は、大きな課題となっていた。
「夜間のパトロールは暗くて危険です。また、国立公園の苔など、貴重な財産を踏み潰してしまったり壊してしまったりするという懸念もあります」。健康増進課課長の知見圭子さんはそう説明する。

夜間の樹海は街灯がなく足を踏み外す危険があり、長年かけて成長した貴重な生態系を傷つける恐れがある。以前にも夜間パトロールの実施を検討したことがあったが、こうした理由から断念したのだという。
空から見守る新たな目
そんななか、耳に入ってきたのが、甲州市で果樹の盗難防止にドローンを活用しているという話だった。夜間でも赤外線カメラによる映像から人の動きを鮮明に捉えられるという。
「樹海での夜間パトロールにも応用できるのではないか」。
誰ともなくひらめき、話が動き出した。
山梨県立精神保健福祉センター所長であり、精神科医でもある志田博和さんも、このアイディアの推進に関わった一人だ。
「正攻法では、とてもやりきれません。山梨県は人口が約80万人。人口規模としては世田谷区と同じくらいであるのに、面積は77倍。広大な土地を持っているため、かなりマンパワーが分散されてしまいます」

2023年9月頃、知見さん、今宮さん、志田さんのチームがアイデアの実現に向けて動きはじめた。
「予算を計上するにあたり、青木ヶ原地域で熱赤外線カメラを活用できるのか、技術的な実現性について、ドローン事業者にヒアリングを行いました。その後、庁内で必要予算の試算と想定飛行範囲を検討し、実施に向けて進めることが決まりました」(今宮さん)
しかし、実現までにはさまざまな調整が必要だった。特に地元自治体との連携は重要な課題だ。
「主に関わるのは地元自治体です。青木ヶ原は大部分が富士河口湖町、一部が鳴沢村に属しています。これらの自治体にとって、青木ヶ原における自殺対策の取り組みは、非常にセンシティブな問題なのです」 (今宮さん)
観光地としてのイメージを大切にしたい地元自治体との調整や、実際に保護した際の協力が欠かせない警察との連携体制構築など、多くの関係者と協議を重ねていった。
夜の森に浮かぶ命の光
2024年9月、ついに「青木ヶ原ふれあい声かけ事業」の一環として、ドローンパトロールが始動した。
「ドローンは、自殺企画者の保護頻度が比較的高いエリアを優先して飛行させています」(知見さん)
パトロールでは、2台のドローンが連携して動く。まず1台目のドローンが熱感知カメラで人の存在を探知。人影を発見すると、もう1台のドローンがその場所に急行する。

「1台目のドローンが熱感知で人を発見した場合、2台目のドローンがその場所に向かい、対象者の上空に到達した時点で声掛けを行います」 (今宮さん)
2台目のドローンにはスピーカーが搭載されている。暗闇の中で迷っている人や、自殺を図ろうとしている人に対し、空から直接声をかけることができる。同時に、ドローン運用会社が契約しているパトロール員2名も現地に向かい、可能な範囲で声かけと保護を行う。
2024年度は期間を分けながら断続的に飛行し、具体的な成果を上げている。これまでに赤外線カメラで人を感知し、声かけから保護につながったケースが複数件ある。ただし、観光客が映り込むケースや野生動物を検知することもあり、判別には経験が必要だという。
「シカが映り込むことがよくあります。集団ならわかりやすいけれど、単体でいると、判断が難しい。シカが立ち止まって足を動かす仕草が、人間の手の動きに似ているのです」(今宮さん)

今宮さんは実際に現場へ足を運び、画面を確認しながら人と動物の見分け方について、現地スタッフと話し合いを重ねた。また、声かけの方法にも工夫がある。
「いきなり上空から声をかけるのではなく、あえて遠くから、うっすら聞こえる程度に話しかけ、少しずつ近寄っていくことが大切です」(志田さん)
驚かせて危険な行動を誘発しないよう、「手助けが必要であれば、ハンドサインを出してください」と穏やかに声をかける。こうした細やかな配慮が、命を守るドローンパトロールには欠かせない。
森の魅力を伝える樹海ウォーク
一方で、青木ヶ原樹海の本来の魅力を知ってもらうための「攻め」の対策にも力を入れている。その代表的な取り組みが「樹海ウォーク」だ。
「樹海ウォークは、樹海の素晴らしさを多くの方に知っていただくことを目的としています。県内外から参加者を募り、皆さんで一緒に樹海内の遊歩道を散策する取り組みです」 (知見さん)
樹海ウォークは単なる散策ではない。ネイチャーガイドの同行により、樹海の成り立ちや自然の豊かさについて学べる教育的要素も持ち合わせている。
「ネイチャーガイドから、樹海の魅力や成り立ちについての解説を受けながら、楽しくウォーキングしていただきます。樹海の本来のイメージを広げるために、年に1回開催しています」(知見さん)
このイベントには地域全体が関わっている。富士河口湖町や地元のウォーキング協会も共催として参加。さらに地域の教育機関との連携も進んでいる。

「富士河口湖町にある健康科学大学のリハビリテーション専攻の学生たちが、歩行で疲れた参加者向けにケアのブースを設置するなど、地域全体で協力して取り組んでいます」 (今宮さん)
樹海ウォークは県内外から広く参加者を集めており、地元の富士河口湖町や鳴沢村以外の市町村からの参加者も多い。普段はなかなか経験できない樹海の自然を間近で感じられる貴重な機会となっているため、評判は上々だという。
「樹海ウォークはとても人気があり、毎年約400人近くの方に県内外からご参加いただいています。今後は特に県外からの参加者を増やし、樹海の素晴らしさや自然の魅力を広く知っていただくことで、ネガティブなイメージの払拭につなげていきたいと考えています」 (今宮さん)
情報戦略としての取り組み
自殺防止という「守り」の対策と、樹海の魅力発信という「攻め」の対策。一見相反するように思えるこの二つの取り組みを両立させるために、細心の注意が払われている。
「地元の方々の意向を尊重することが大切です。地域の観光振興にも結びつくような、イメージアップにつながる対策を常に心がけています」 (今宮さん)

青木ヶ原樹海を抱える富士河口湖町と鳴沢村にとって、観光イメージの悪化は死活問題だ。だからこそ、どのような対策を行うにしても、地元の意向を第一に考える必要がある。
一方、「情報戦略」という視点からのアプローチも欠かせない。
「インターネット上には、さまざまな情報が飛び交っており、自殺の場所や方法に関する情報が簡単に手に入ります。そのため、樹海ウォークなどのポジティブなイメージ発信だけでは不十分だと考えています。青木ヶ原樹海はドローンがパトロールしているということをネット社会にも示し、自殺の手段へのアクセス性を下げることも重要です」(志田さん)
実際、マスコミの注目も集まっている。新聞やテレビなどでも報道されており、抑止効果も期待できる。
「事業開始時にはマスコミ向けに事業説明会を開催し、ドローンの飛行状況や赤外線カメラの映像など、実際の様子をご紹介しました。その結果、多くの新聞社やテレビ局に取り上げていただくことができました」 (今宮さん)
命をつなぐ、次の一歩へ
ドローンパトロールが成果を上げつつある一方で、新たな課題も見えてきた。保護後の支援体制だ。
「これまでは、保護した人たちに対する、その後の支援体制が十分ではありませんでした。一度保護されて帰った後、再び訪れる人も少なくありません。複合的な悩みを抱えた人たちをいかにして適切な支援へ確実につなげていくか、そこが重要です。支援体制が整わなければ、根本的な問題解決には至らないと考えています」 (知見さん)
「例えば、一人暮らしで、病気のため就労できない状況にある方などは、地元に戻った後も、継続的かつ手厚いサポートが必要なケースだと思われます」(今宮さん)
こうした実情を背景に、保護した人への「アフターケア」の体制づくりを急いでいる。県外の方には地元自治体と連携し、県内の方は保健所を通じて支援につなげる仕組みを強化中だ。
また、ドローン運用の効率化も欠かせない。現在のパトロールのやり方では、大きなコストがかかる。
「ドローンを飛ばす際は、その都度機材を搬入し、セッティングして飛行させるという工程を繰り返し行います。この作業には、毎回5〜6人の人員が必要となります。さらに滞在費なども発生するため、全体としてかなりのコストがかかっている状況です」(今宮さん)
2025年度に向けて、ドローンの定点設置場所の確保を進めている。コスト削減によって飛行回数を増やし、より多くの命を守ることを目指している。
ドローンパトロールと樹海ウォーク。その両輪で、青木ヶ原樹海のイメージを一新するための奮闘が続いている。
文・稲田和瑛、写真・今村拓馬