不妊治療の壁に挑んだ県職員 異例のスピード感で実現したのは、なぜ
(連載:高度政策企画イニシアチブ vol.2)

山梨県ではいま、全国でもトップクラスの水準となる不妊治療の助成事業が始まっている。
先進医療だけでなく保険適用外となる治療にも助成する画期的な制度だ。
事業の創設を発案したのは自らも不妊治療の当事者として苦悩した一人の男性職員。
立案から8カ月という異例のスピードで助成制度をスタートさせた。
実現を支えたのは、彼が所属する若手職員からなる新設の組織
「高度政策企画イニシアチブ」の存在だった。

説明文

 やまなしin depthでは、「県政フカボリ!」の新コーナーを始めます。

 県が力を入れる重点施策をピックアップし、連載形式でその背景や課題、展望を県民の皆さまにお伝えしていきます。連載第二弾は「豊かさ共創スリーアップ」です。

■この記事でわかること
✔ 保険適用の「落とし穴」を埋める全国トップクラスの支援策
✔ 発案者は当事者の男性職員。自身の過酷な治療経験が挑戦を後押しした
✔ 異例のスピード実現では、若手職員からなる新設の組織「高度政策企画イニシアチブ」が躍動

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当事者だからこそ見えた制度の落とし穴

「レクサスが1台買えるくらいの費用がかかった」

「ダメだったらまた200万円、というプレッシャーは計り知れない」

 これは、子どもを授かりたいと願う夫婦がSNSに投稿した不妊治療の過酷な現実の一端だ。

 山梨県が2025年12月から開始した不妊治療費(保険対象外となる治療)助成制度は、夫婦の経済的負担を軽減するため、医療保険が適用されない不妊治療に係る医療費の一部を助成する。

※制度の詳細は県HPはこちら

 この制度を発案したのは、「高度政策企画イニシアチブ(以下、イニシアチブ)」メンバーの男性職員だ。

「私自身、結婚してからなかなか子どもができず、不妊治療を経験しました。年間の治療費の自己負担が200万円を超えたこともあります。幸い子どもを授かることができましたが、成功する保証はありません。SNSを見ていると1,000万円以上を費やしている方もいる。個人の負担があまりに重すぎるというのがリアルな実態です」

 2022年4月から不妊治療は保険適用となった。だが、そこには「制度の落とし穴」があった。一般的には「保険適用になったから安く済む」と思われがちだ。しかし、最先端の技術を併用すると、保険が効くはずの基本治療も含めて全額自己負担になってしまい、かえって負担が増すケースがある。それが「混合診療*の壁」だ。

*公的医療保険が適用される「保険診療」と、全額自己負担の「自由診療」を一つの病気の治療過程で併用すること。原則として禁止されており、行うと保険診療分も全額自己負担になる。

 男性職員の場合、染色体異常による男性不妊が原因で、妊娠するには「PGT-A(着床前胚染色体異数性検査)」という先進医療が必須だった。流産率を下げ、妊娠率を上げるための技術だ。しかし、この検査を行うと混合診療となり、費用が跳ね上がる。本来なら保険が適用されるはずの採卵や胚移植などの基本治療も含めて、全額自己負担になってしまう。

「保険適用前なら自治体の助成でカバーできていた部分が、2022年4月以降の保険適用後には助成がなくなっていました。しかも、混合診療で全額自己負担になる。この『制度の狭間』に落ちてしまう人たちを救いたい。それが今回の助成制度の核心です」

厚生労働省の資料などから県が作成

「来年では遅いんです」

 イニシアチブは新たな行政課題に柔軟に対応するため、さまざまな部局から集まった若手職員が政策立案業務に専念している。男性職員はイニシアチブが立ち上がって間もない2025年5月、長崎知事に直接現状を訴えることにした。

「経済的な理由で不妊治療を諦めざるを得ない状況があります。このままでは、子どもを望む人たちの希望が途絶えてしまう」

 人口減少問題は、県政でも喫緊の課題だ。じっと話を聞いていた知事は「早急に実態調査し、助成事業を検討するように」とその場で指示した。

 それからが急展開だった。事業を実際に動かす担当課との調整もそこからスタートだ。年度途中の補正予算で、しかも即座に進めなければならない。子育て・次世代サポート課からは悲鳴に近い声が上がったという。しかし男性職員は「当事者にとって不妊治療は1分1秒を争うもので、来年では遅いんです」と必死に説明した。そして、7月には「不妊治療に関する意識と実態調査」が実施された。

「率直に申し上げて、やはりこれが実態なのだなと痛感しました」。

 調査結果は、男性職員の予想通りだった。回答者の約4分の1が治療費を100万円以上を負担し、約2割が経済的理由で治療を断念している――。

 データが示す現実は、男性職員自身の体験とも重なっていた。

2025年山梨県の不妊治療費(保険適用外となる治療)助成事業創設までの流れ
4月高度政策企画イニシアチブが発足
5月男性職員が知事に「子どもを望む人たちの希望が途絶えてしまう」と訴え
6月6月県議会で調査に関する補正予算を計上
実態調査の内容検討
7月不妊治療に関する意識と実態調査を実施
9月実態調査の結果を公表
9月県議会で助成事業を補正予算に計上
12月助成制度開始

 子育て・次世代サポート課は、調査結果をもとに支援の範囲を検討した。アンケートでは混合診の負担だけでなく、保険適用の年齢・回数制限で治療を断念した声も多かった。こうした実態を踏まえ、県は支援対象を広げる方針を固めた。

スタートした助成事業は、保険適用外となる治療にかかった費用の7割を助成する。

「正直、全額自己負担の方にとっては、十分ではないかもしれません」男性職員は言った。しかし、重要なのは金額だけではなく、「行政はあなたたちを見捨てていません、というメッセージを届けること」だと考えている。

「着床前検査(PGT-A)などの先進医療を受ける方は、県内で十名いるかどうか、回数制限等で対象となる方は、数十名程度かもしれません。いずれにせよ、少数であっても、最も苦しい状況にある人たちに手を差し伸べることができる、優しさのある事業を目指しました」

 助成事業に加え、仕事との両立に向けた職場環境づくりを支援したことも大きな特徴だ。治療と仕事を両立しやすい環境づくりを進めることで、制度は結果的に全国トップクラスの水準へと引き上げられた。

イニシアチブは「フロントランナー」

 わずか半年あまりでの制度化。行政としては異例のスピード感だ。この突破力を生み出したイニシアチブは分野を問わず事業の「0から1を作る」ことに特化している。プロジェクトディレクターを務める男性職員は言う。

「私がもし他の課にいたら、『不妊治療の保険適用は他部局の所管だから』と諦めていました。組織の枠組みにとらわれず、県民の思いに真正面から向き合い、互いの挑戦を支え合うイニシアチブという環境があったからこそ、実現できた事業です。さらに、子育て・次世代サポート課の皆さんが、問題意識を共有し、全力で取り組んでくださったことで、短期間での事業化につながりました」

 イニシアチブの役割は、まだ形になっていない政策や、どの部署も担当していない課題に対して、「フロントランナー」としてシード期(種まき)を担当すること。今回の不妊治療助成事業は、その第一弾として代表的な成功事例となった。

 とはいえ、今回の成功は、新しい組織の力とともに、男性である職員が、当事者として声を上げたことに大きな要因がある。不妊治療は、社会ではまだまだ「女性の問題」と捉えられがちだ。しかし、実は原因の約半分は男性側にある。男性職員自身がそうだった。

「もし原因が妻にあったら、ここまで実体験を公にできなかったかもしれません。不妊治療をしている女性は、身体的にも精神的にも経済的にも大きな負担を強いられます。その女性が自身の体験を語り、政策を訴えることはハードルが高い。ならば、負担が少ない当事者である男性の私が声を上げ、制度を作ることには意味があるんじゃないか。そう思えて実際に動けたことは幸いでした」

 男性職員はいまも、NPO法人と協力して「妊活男子の会」を開催するなど、不妊治療に対する男性側の意識改革にも取り組んでいる。

これからも「血の通った政策」を目指して

 一人の職員の個人的な痛みが、県の重要政策につながった。男性職員はこう振り返る。

「職員自身が、一人の生活者として感じた痛みや課題を起点にすることで、より解像度の高い、血の通った政策が生まれる。今回の取り組みを通じて、そう実感しました。机上の空論ではなく、『生活者の実感』から政策を作る。この姿勢は、県民1人ひとりの豊かさを創生するために、今後も欠かせないように感じます」

勢揃いしたイニシアチブのメンバー(撮影・今村拓馬)

「高度政策企画イニシアチブ」は、次なる課題へと動き出している。単独の課では手に負えない複合的な問題への施策立案から、未来への種まきとなる高校生との連携授業まで、その活動領域は広がるばかりだ。

文・黒川なお

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