
箏(こと)の音が、海を渡った——山梨の高校生が、ロサンゼルスで見つけた道
さくら さくら やよいの空はーー。
ロサンゼルスで、箏(こと)の演奏が響き渡る。
山梨県から海を渡った高校生が奏でる音色は、
聴く人の心を揺さぶり、奏でる本人の人生も変えていった。
その経験は、大学の選択を、そして
「日本の伝統芸能を守る」キャリアへと導くことになる。
2025年度から、新コーナー「in depth プラス」を始めます。
登場するのは、皆さんの身近で活躍するミライ思考の人たち。幅広い人たちにじっくり話を聞き、その息吹をお伝えします。
■この記事でわかること
✔ 山梨県の国際交流事業が、高校生の人生を大きく動かした
✔「箏をロサンゼルスで演奏する」という夢には、いくつものハードルが立ちはだかった
✔ ロサンゼルスでの体験で芽生えた「日本文化を伝えたい」という想いが、進路とキャリアへとつながった
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目次
「国立劇場の人」になるまで
「ここは、桜の名所なんです」
休館中の国立劇場の前に立つ、佐野このみさん。
撮影時は満開の桜。多くの来場者が薄紅色の花を愛でていた。

佐野さんは、国立劇場などを運営する独立行政法人日本芸術文化振興会に勤務する。
「国立劇場の人」として、「日本の伝統芸能を支える」キャリアへの入り口は、15年前の高校1年生の夏に遡る。
「とにかく、海外に出たくて出たくて。もう行きたくてしょうがないっていう感じで」。
小学5年生で英語を習い始めてから、気づけばその世界に夢中になっていた。県内屈指の進学校・甲府南(こうふみなみ)高校に入学した佐野さん。「英語を話せる場所へ行ってみたい」。その一心で、山梨県国際交流協会が主催する、姉妹都市・アイオワ州への高校生派遣事業に応募。県内の高校生約20人がホームステイをしながら現地で国際交流を行う、1週間のプログラムだ。
「これは絶対行きたいって思って、存在を知った瞬間にすぐ応募しました」
面接を経て見事選ばれ、高校1年生の夏に初めて、憧れの海外の地を踏んだ。トウモロコシ畑が広がるアイオワの大地。
「カルチャーショックというか、もう何もかも大きくて、何もかもが違いました」
初めての海外経験。その翌年、またチャンスが訪れる。
箏(こと)で、アメリカへ行きたい
高校1年生の冬、学校で佐野さんの目に留まった1枚のチラシ。山梨県と小佐野(おさの)記念財団が主催する「高校生のための国際交流・国際理解のための企画コンクール」。最優秀賞に選ばれると、ロサンゼルスへの渡航費と20万円の活動支援金が給付されるという。
「箏(こと)で、アメリカに行きたい」。チラシを見た瞬間にそう思った。
当時、佐野さんは甲府南高校の箏曲部(そうきょくぶ=箏の合奏をする部活動)に所属し、週6日の練習に明け暮れる日々。入部したばかりの1年生の秋には、すでに県大会での優勝を経験していた。
「箏っていうと優雅なイメージがあると思うんですけど、やってることはほぼ強豪の吹奏楽部に近かったです」
午後4時半から夜7時まで練習し、勉強も厳しい進学校での生活は、分刻みのスケジュールだった。
「箏で、ロサンゼルスに行きたい」。忙しい日々のなかでも、チラシを見た瞬間から心は決まっていた。
コンクールと企画実施には、2名まで参加可能。独奏よりも、2名での合奏なら、演奏できる曲目の幅が広がる。箏曲部の同級生・天野みのりさんを相方に誘った。
「一緒に応募しない?」
「やりたい! やろう!」
同級生は、二つ返事でOKしてくれた。時間を見つけて、母親のパソコンで企画書を書き上げた。
プレゼン当日は模造紙1枚を持参し、7〜8組が集まる会場で堂々と発表した。箏の演奏も披露した。そしてその日のうちに審査結果が発表され、最優秀賞で名前を呼ばれた。
「箏は持っていけない」絶望からの逆転
最優秀賞に選ばれてから、二人は現実の厳しさを知ることになる。まず立ちはだかったのは、「箏をどう運ぶか」という問題だった。宅配便で国際輸送の見積もりを取ると、予算をはるかに超える金額が返ってきた。さらに調べていくと、輸送トラブルのリスクや、ロサンゼルスの乾燥した気候で木材が割れる可能性も浮かび上がった。
「だんだん、これは無理だなっていうことがわかってきまして……」
途方に暮れながら、「ロサンゼルス 箏」でインターネットを検索してみる。するといくつか現地の和楽器教室のホームページがヒットした。
「Contact Us」のリンクからメールを送った。何のツテもない。ただ「山梨の高校生です。箏を貸してもらえませんか」という、まっすぐな文章とともに。
OKの返信は、意外にもすぐに届いた。
「本当に救われた気分でした」
箏の先生は楽器に加え、スピーカーや楽器台まで用意してくれた。見ず知らずの高校生を信頼し、貴重な楽器を破格の料金で2日間預けてくれた。今の佐野さんには、その温かさがよくわかる。
箏の問題が解決したあとも、やるべきことは山積みだった。当時はスマートフォンもLINEも普及していない時代。母親のパソコンにスカイプをインストールし、天野さんを自宅に呼んで、協力してくれる現地のロサンゼルス山梨県人会とやり取りしつつ、演奏場所や移動の段取りを詰めた。
県庁の担当者とは、メールでのやり取りを重ねた。企画書に対して、びっしりと赤文字でコメントが返ってきた。「箏の運搬はいつ誰が行うのか」「アポイントメントは確実に取れているか」。社会人でも音を上げそうなフィードバックの数々だ。

「当時の私は、怖いもの知らずだったので、苦難とも思わず、ただひたすら実現のために進んでいました」
ロサンゼルスの老人ホームで知った「日本人」としての自分
高校2年生の夏、ついにロサンゼルスの地に立った。おそろいの帯でそろえた浴衣を着て、2日間で計4ヵ所を回った。幼稚園、老人ホーム、ファーマーズマーケット、日本食レストラン。どの場所でも、異国の楽器の音は人々の足を止めた。
箏のチューニングを直す間は、もう1人がマイクを持って英語でMCをする。曲目の解説から、山梨のアピールまで。爪をはめて弦を弾く様子を見せながら、箏とは何かを伝えた。英語の原稿はすべて、佐野さんが書いた。
曲目も佐野さんが考え、箏の譜面がないものは自分でアレンジした。
「日本の音楽を聴いてもらうなら、知っている曲の方が喜ばれるはず」と考え、ディズニーの曲やアメリカ国歌、「私を野球に連れてって(原題:Take Me Out to the Ball Game)」なども用意した。だが実際に現地で反応が大きかったのは、「さくら」と吉崎克彦作曲「手・て・テ」。日本古来の音階と、現代的エッセンスが加わった音階で書かれた2曲だった。
「やっぱり聴くからには、本場のものが聴きたいんだってそこで学びました」

そして、最も忘れられない瞬間が訪れる。日系人向けの老人ホームでの演奏だった。
入居者の多くは、戦前に日本からアメリカへ渡った日系一世や、アメリカ生まれの二世などの方々。戦争を経験し、差別の時代を生き抜いてきた世代だ。「君が代」とアメリカ国歌を続けて演奏すると、入居者は、2曲ともを誇らしげに口ずさんだ。
「彼らにとっては、どちらも故郷なんだって。一筋縄ではいかない、大変なご苦労をされてきた方たちが、2つの国歌を誇らしく歌う姿を見て、心にズシン、とくるものがありました」
日本にいれば考えることのなかった「日本人とは何か」という問い。初めて胸の奥から湧き上がったその問いが、佐野さんの進路に光を灯すことになる。

AO入試にはロサンゼルスの体験を綴る
帰国後、佐野さんの意識は変わった。「日本の文化を、国際的な視点から伝えたい」。そのための学びを求めて、オープンキャンパスをめぐるうちに辿り着いたのが国際基督教大学(ICU)だった。
高校3年生の夏休みの間、AO入試の1,500字の作文を何度も書き直した。テーマは「あなたの価値観・物の見方・考え方に影響を及ぼした出来事」。書くべきことは、最初からわかっていた。ロサンゼルスの老人ホームで起きたことだ。「日本人とは何か考えて、国際的な人間として活躍していきたいと書きました」。
晴れて合格し、ICUに入学した佐野さん。サークルのオリエンテーションで三味線の音を聴いた瞬間に、直感した。「この音だ」。大学では、長唄(ながうた)研究会の道を選んだ。長唄とは、江戸時代に歌舞伎とともに発展した三味線音楽だ。佐野さんはまた一つ、日本の文化へと踏み込んでいった。
国立劇場の舞台に立つ
ICUの長唄研究会では、指導者の先生が国立劇場の小劇場で年1回の演奏会を開いていた。2年生から卒業まで、佐野さんも毎年その舞台に立ち続けることになる。500人超を収容する小劇場は、いつも満席だった。
ライトが眩しい。緊張はしなかった。日本舞踊を習っていた幼少期から、舞台の空気はいつも居場所だったから。
大学2年生のとき、歌舞伎の授業に出会う。「歌舞伎が好きで長唄や日本舞踊を習い始める方もいらっしゃいますが、私は逆の順番でしたね」。だが佐野さんにとっては、それが自然な流れだった。
先生の歌舞伎の授業は面白く、やがて月に一度は劇場へ足を運ぶようになった。
「その授業で、就職先としての国立劇場を意識するようになりました。長唄で舞台に立たせていただいていたことも大きいです」
支えられた側から、支える側へ
新卒で独立行政法人日本芸術文化振興会に入職して以来、佐野さんは国立劇場調査養成部で舞台の映像・写真記録を担当する部署と、文化庁の補助金で全国の劇場・音楽堂を支援する助成事業の部署を経験してきた。
助成金の仕事をしながら、佐野さんはある記憶を思い出したという。高校時代、県庁の担当者からびっしりとコメントが返ってきたあの企画書だ。「対象経費と対象外経費は?」「リスクがあった場合の対応は?」あの厳しいコメントは、公的なお金を扱う者の責任だった。
「あのときの山梨県庁の担当の方のご苦労が、今になってよくわかります」
思えば子どものころ、文化庁の「伝統文化こども教室事業」で日本舞踊と出会い、それが箏へ、長唄へ、国立劇場へとつながった。そして回り回って、同じように公的な支援の仕事に携わるようになった。
「私は公的な機関で、伝統芸能のプレーヤーの方たちからすごく期待されているところの職員だと思っています。その思いに対しても誠実にお返しできるように。伝統芸能に対して誠実、仕事に対して誠実、人に対して誠実。そう意識して日々、仕事に向き合っています」

【佐野このみさんのキャリア・クロニクル】
| 2011年 | 高校1年生 高校入学・箏曲部入部 |
| 2012年 | 高校2年生 山梨県・小佐野記念財団主催「高校生のための国際交流・国際理解のための企画コンクール」最優秀賞受賞 |
| 2013年 | 高校3年生 大学にAO入試で合格 |
| 2014年 | 大学入学 |
| 2018年 | 修士課程進学 |
| 2019年 | 修士課程修了、就職 |
チャンスが来たら、とにかくつかむ
「ロサンゼルスで出会った日本出身の方がおっしゃっていたんです。チャンスが来たら、とにかくつかむんだ、って。その言葉がずっと残っています」
社会人になった今、高校生のときの怖いもの知らずの行動力を懐かしく思い出す。「自分で一から企画を立ち上げて、ロサンゼルスに行くなんて」。でも、だからこそ伝えたい、と佐野さんは言う。「中高生だからこそ、10代だからこそ、チャレンジできることがある。いつかやってみようじゃなくて、今やってみようっていう気持ちで。ためらわずに、踏み出してほしいです」。
箏の「さくら」の音色に導かれ、桜が咲き誇る国立劇場まで、道は続いていた。
高校生で芽生えた「日本の文化を伝えたい」という真っ直ぐな想いは今、伝統芸能を次世代へと繋ぐ場所で、満開の花を咲かせている。
文・内藤瑠那、写真・山本倫子


