「多文化共生社会」実現への挑戦 外国人労働者をサポートする医療保険制度ができるまで

「よかった。無理ゲー(不可能)じゃないかも」
受話器を握りしめたまま、山梨県の担当者はほっと一息をついた。
山梨で働くベトナム人労働者が母国に残した家族を支援する新たな医療保険制度。
実現までの道のりは決して平坦ではなかった。
山梨県が全国に先駆けて導入したこの取り組みは、
多文化共生社会実現への新たな一歩として注目を集めている。
制度構築の背景から、目指す社会像まで、その挑戦を追った。

◼️この記事でわかること
✔ 山梨県が全国に先駆けて構築した「外国人労働者家族向け医療傷害保険制度」について、駐日ベトナム大使が謝意を表明した。
✔ 制度づくりのきっかけは、ベトナム人技術者を雇用している埼玉県の民間企業の取り組みだった。
✔ 制度の実現に向け、法的な問題を含めて多くのハードルをクリアした。

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「人道的、意義深い」ベトナム大使が感謝

 2024年6月12日、東京・渋谷のベトナム大使館で記者会見が開かれた。

「この人道的で意義深い取り組みを広報してほしい」。ファム・クアン・ヒエウ駐日ベトナム大使は、集まった日越両国の主要メディアに呼びかけた。「我が国の労働者は安心して山梨県で働くことができます」と述べ、長崎幸太郎山梨県知事と固い握手を交わした。

握手を交わす長崎幸太郎山梨県知事とファム・クアン・ヒエウ駐日ベトナム大使

 あいさつに立った長崎知事は「外国人労働者の皆さんは、日本経済にとって、ひいては山梨県にとっても、なくてはならない重要な存在です」と切り出し、日本の少子高齢化による労働力不足の深刻化を指摘。外国人労働者に選ばれる地域づくりの重要性を強調した。

 山梨県で外国人を雇用している事業所の数は、2023年10月末時点で1,900カ所。ここ10年間で2倍以上になった。外国人労働者の数も増加し、ベトナム人が3,019人と一番多い状況だ。

 長崎知事は会見で、制度導入の背景について熱く語った。

「外国人を雇用している企業や外国人労働者の方々からは、『母国の家族への心配が軽減できれば、山梨県で安心して働ける』との声をいただいています。心配ごとの大部分は、家族の健康問題なのです」

「この制度を山梨県内の企業に利活用していただき、日本で働くことを希望するベトナム人の方々に選ばれる企業となることを期待しています。そして、ベトナムの皆さんをはじめ、外国人の方々に、山梨が『第2のふるさと』と思ってもらえるような環境づくりに引き続き力を入れていきます」

先駆者、小金井精機に続け

 制度の先駆けは、ベトナム人技術者を雇用している埼玉県の民間企業だった。

 この会社は、埼玉県の精密機器メーカー、小金井精機製作所。世界最高峰の自動車レースF1をはじめとしたモータースポーツに欠かせない精巧なエンジン部品を供給していることで知られる。同社は2020年から、ベトナム人従業員の家族向け医療保険への支援を始めた。

 鴨下祐介社長は、「2007年からベトナム人技術者の採用を始めました。家族を大切にする彼らに、離れて暮らす父母の健康を心配せずに働いてほしかったんです」と語る。

 当時のベトナムの医療事情を目の当たりにした鴨下社長によると、首都ハノイの国立病院でもベッドがいっぱいになると、ベッドの下にもう1人収容するような、日本では考えられない水準の医療だったという。日本並みの医療が受けられる病院も存在するが、値段が高く、一般市民が受診することは難しかった。

 そこで、鴨下社長は保険会社に相談し、ベトナムの家族向け医療保険制度を開発。当初は従業員の反応もさまざまだったという。

「ベトナムでは保険制度が浸透していなかったため、『加入したら損をするのではないか』という反応もありました。しかし、制度について丁寧に説明し、『家族にちゃんとした医療を受けさせましょう』と伝えていくうちに、だんだん加入が増えていきました」(鴨下社長)

小金井精機・鴨下祐介社長の先進的な取り組みは、日本政策金融公庫が発行する冊子でも取り上げられた

 現在、勤続3年以上など一定の基準を満たした場合、会社が全額保険料を負担している。この制度を含む福利厚生の充実は、従業員からも好評だという。

「小金井精機に来てよかった、と言ってもらっています」と鴨下社長は笑顔を見せる。

制度構築への道のり

「2023年3月、知事がテレビで小金井精機の取り組みを知り、『山梨でもできないか』と指示がありました」

 山梨県外国人活躍推進グループ外国人活躍推進監(当時)の小宮山嘉隆さんは、制度構築に向けたスタートを振り返る。

 しかし、一企業の取り組みを自治体主導で実現するのは容易ではなかった。

 推進監補佐(当時)だった多様性社会・人材活躍推進局主幹の石原盛次さんは、保険代理店への相談を通じて、実現の道筋を探った。しかし、保険加入のためには、その国に現地法人を置く必要があるなど、数々のハードルがあることがわかってきた。

「山梨県庁はベトナムに現地事務所を置いていませんし、多くの企業も同様です」と石原さん。

 ただ、道筋にわずかな光明が見えた。保険代理店からの電話で、小金井精機の保険設計に携わった東京海上ベトナムの担当者が、まだベトナムに駐在しているとの知らせを受けた。「無理ゲーかと思ったけど、土俵際で踏みとどまった」と安堵した瞬間だった。その後は、この担当者と、オンラインやメールで何度も協議を重ねた。

 課題を一つずつクリアしていく中で、ポイントとなったのが行政の関与だった。

「行政とのパートナーシップ。それが東京海上ベトナム側からの強い要望でした。山梨県が中軸にいることによって、現地法人がなくとも制度運用が可能になりました」(石原さん)

 また、国境をまたぐ送金の問題も、課題だった。

 日本の企業に勤める従業員が保険料を支払う際、国をまたぐことになるため、日本から直接送金することができない。そこで、ベトナム人従業員がベトナム国内の自身の口座から振替やクレジットカードを使って保険料を支払う形をとることにした。こうして、国際送金に関する法的な問題を回避することができた。

 2023年8月、知事との政策推進協議の場で、保険制度が実現に向けて進みだしたことが報告された。「素晴らしい。(労働者や県内企業にとっての)インセンティブになると思う」とにこやかに話した知事の表情を石原さんは忘れられないという。

「次々とわいてくる問題を、一つひとつ丁寧に解決していきながら、制度の実現にこぎつけました」(石原さん)

多様性社会・人材活躍推進局主幹の石原盛次さん

多文化共生社会の実現へ向けて

 この制度を通じて目指す社会像とは、「多様な価値観を認め合い、誰もが自分らしく活躍できる共生社会の実現」だ。

「多文化共生社会の実現が、山梨県の持続的な成長につながります。外国人を単なる労働力としてではなく、生活者として、そして地域社会の担い手として重要な存在と捉えています」(小宮山さん)

外国人活躍推進グループ外国人活躍推進監だった小宮山嘉隆さん(左から2番目)。ベトナムのチュオン・ティ・マイ越日友好議員連盟会長らが4月に来県した際の記念撮影=山梨県提供

 山梨県は2022年、小宮山さんや石原さんが中心となって「やまなし多文化共生社会実現構想」を策定。

「コミュニケーション力」「協力する力」「セルフエスティーム(自己肯定感)」の3つを柱に、人間関係づくりと地域での協働を進めるビジョンを示した。

「多様性の重要性を伝えていく必要性も感じています。マイノリティが感じている生きづらさ、そして、マジョリティーが自身の持っている特権性について気づいてほしいと思っています」(石原さん)

 多様性を押し付けるのではなく、「気づいてもらう」ことが重要だと石原さんは指摘する。「気づくことで、積極的行動にはすぐにつながらなくても、”何かをしない”選択をする。すなわち、マイノリティを傷つけたり排除したりする行動をとらなくなる。それも大切な一歩です」。”何かをしない”というのは消極的にも聞こえるが、マイノリティを包摂するアプローチとして大事にしたい考え方だ。

 山梨県が掲げる「第2のふるさと」。それは単に外国人労働者を受け入れるだけでなく、共に地域を支え、発展させていく仲間として迎え入れる覚悟の表れでもある。

「山梨県では、適正な労働環境づくりを推進する企業が参加できるネットワークを立ち上げました。日本での生活に必須となる日本語教育を積極的に行う企業の取り組みを応援していきます」(石原さん)

「外国人労働者家族向け医療傷害保険制度」は、他の自治体からも注目を集めている。東京海上ベトナムには、複数の自治体から問い合わせがあるという。

 この先駆的な取り組みが、山梨県から日本全体へと波及し、多文化共生社会の実現への道を切り拓いていくことが期待される。

文・稲田和瑛、写真・山本倫子

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