
東京の『当たり前』をつくった、独り勝ちしない人たち知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす #1
きょう乗った電車。夜の街を照らす灯り。
もとをたどれば甲州財閥。
ちょっと知ると、もっと知りたくなる。
それが甲州財閥。
甲州財閥を知れば、地域に誇りを持てる。
元気が出てくる。挑戦したくなる。
連載「知ってる? 甲州財閥」の1回目は、最近、甲州財閥を“箱推し”している長崎幸太郎知事と、甲州財閥を知り尽くし、2025年秋に甲州財閥展を開いた山梨県立博物館の小畑茂雄さんの対談です。
■この記事でわかること
✔ 甲州財閥は、周りを豊かにすることで自分も豊かになろうとしたグループだった
✔ 甲州財閥の誕生は「特異な現象」ではなく、山梨の風土が生んだ必然の結果だった
✔ 甲州財閥のメンバーはそれぞれ、チャレンジを奨励する「開拓精神」と、仮に失敗しても周囲で支え合う「結の心」を持ち合わせていた
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目次
甲州財閥展を見て、意を強くした
――知事は甲州財閥をよくご存知でしたか。
長崎:甲州財閥の存在、名前はもちろん知っていました。でも、甲州財閥に対するイメージは……。
小畑:そういう方が多いと思います。山梨県民にとって甲州財閥は、地域に銅像などがあって、「東京で活躍したすごい人たちがいる」という認識はあるけれど、もっと深く関心を持つ存在にはなっていませんでした。
甲州財閥ってなに?
江戸末期以降、鉄道や電力などの都市インフラ事業を手がけたビジネスパーソン集団のこと。全員が山梨県出身だったので、当時「甲州財閥」と呼ばれたんだ。
どうして、山梨県出身のグループがそんなに大きなビジネスで活躍できたの?
繭(まゆ)や生糸を売っていた一部の商人が、幕末に開港した横浜で、大きな利益を上げた。その資金を使って、ビジネス界に進出したんだ。
長崎:そんなときに県立博物館の「甲州財閥展」を見たんです。
小畑:当初は最終日という話でしたが、少し早まって来館いただきました。
長崎:その頃読んでいた本に、「社会に変革を与えるイノベーションには2通りある」と書かれていました。一つは“Winner takes all”。つまり「勝者総取り」です。企業が利益や報酬を独占するのは、まさに「ビッグ・テック」※がそうですよね。いまや、すっかり主流になってしまっている。
※ビッグ・テック:世界規模で支配的な影響力を持つ巨大テクノロジー企業の総称。一般に Alphabet(Google)、Apple、Meta(旧Facebook)、Amazon、Microsoft の5社を指す
――もう一つの「社会に変革を与えるイノベーション」はなんですか。
長崎:包摂的イノベーションです。周りを豊かにすることで、自分も豊かになるというものです。その本では、勝者総取りと対極に位置づけられていて、私も「これからは包摂的イノベーションの時代だ」と思いながら読んでいたので、甲州財閥展を見て、「そうだ! この精神こそが大事だ」と、確信したんです。

<主な甲州財閥のメンバー>
| 生没年 | 出身 | 主な実績(一部) | |
| 若尾 逸平 | 1820-1913 | 在家塚村(南アルプス市) | 東京馬車鉄道、東京電燈 |
| 雨宮 敬次郎 | 1846-1911 | 牛奥村(甲州市) | 甲武鉄道、日本製粉 |
| 根津 嘉一郎 | 1860-1940 | 正徳寺村(山梨市) | 東武鉄道、根津美術館 |
| 小林 一三 | 1873-1957 | 河原部村(韮崎市) | 阪急電鉄、宝塚歌劇、東宝 |
| 早川 徳次 | 1881-1942 | 御代咲村(笛吹市) | 東京地下鉄道 |
甲州財閥がつくった「乗り物と灯り」
小畑:甲州財閥は鉄道事業と密接な関係にあります。若尾逸平が東京馬車鉄道※1の株を買収したのが始まりで、雨宮敬次郎が甲武鉄道※2の常務となり、根津嘉一郎は東武鉄道を建て直し、小林一三は箕面有馬電気鉄道※3、早川徳次は東京地下鉄道※4を起こしました。
※1 東京馬車鉄道:現在の東京都電(路面電車)の前身会社の一つ
※2 甲武鉄道:御茶ノ水―八王子間の電車。後に国有化され現在のJR中央本線の一部に
※3 箕面有馬電気鉄道:現在の阪急電鉄の前身
※4 東京地下鉄道:東京地下鉄(東京メトロ)の前身会社・帝都高速度交通営団の前身
長崎:グローバル経済の中で、今、勝者総取りが当たり前になってしまっている。でも、それは必然ではない。人々の生活を豊かにすることで、自分たちが稼ぐというビジネスモデルへ軌道修正できるはずです。そういう問題意識を私はずっと抱いていました。
ちょうどそのタイミングで、甲州財閥が包摂的イノベーションの担い手だったことを知ったんです。鉄道を敷けば、都市部への移動が容易になり、多くの人にチャンスが提供されます。

小畑:鉄道と並んで、明治時代の終わりから昭和時代の戦前期までは、「甲州財閥といえば電気」でした。東京電力のルーツである東京電燈の株主に、若尾逸平や根津嘉一郎ら甲州財閥の面々が名を連ね、社長も甲州財閥の人物が長く務めました。
甲州財閥の起点というべき若尾は、根津に「投資するなら乗りものと灯(あか)り」と助言しています。将来性のあるものに投資せよという意味だったのですが、社会的に意義ある分野を勧めたという意味で、甲州財閥を象徴する言葉だと思います。
長崎:甲州財閥はファミリーではない。山梨県出身の経済人による、言ってみれば「県人会」みたいなものです。明治時代のある時期から、経済界で活躍する人物が山梨県から続々と生まれたんです。
薩長土肥の各藩出身者が明治維新の物語をつくった要因として、風土が関係したと言われています。その考えに立つなら、甲州という風土が甲州財閥をつくったのであり、薩長土肥と何ら変わらない。むしろ「こっちの方が価値は高いぞ」と思うんですよ。都市の礎をつくったんだから。
若尾逸平って、「甲州財閥のセンター」だね。どんな人だったの?
もともとは天秤棒を担いで笹子峠を超えていた行商だった。妻の不義で離縁したり、当時売っていた綿の相場が下落して無一文になったりしていたんだ。
転機はいつ訪れたの?
若尾は40代になって、幕末に開港した横浜で生糸や水晶の輸出ビジネスを始めた。ビジネスで利益を上げるかたわら、利益を円と外貨の為替相場に投資していて、西南戦争(1877年)のときに巨額の利益を得た。若尾はそのとき、50代後半だった。
その後から、鉄道会社や電力会社の経営に携わるようになるの?
そう。若尾は相場師では終わらず、その後は、利益を鉄道や電力など都市インフラ事業に対する「長期投資」へとシフトチェンジしたんだ。
上の表<主な甲州財閥のメンバー>を見ると、若尾はかなり年上だね。
当時の新聞などでは甲州財閥のことを「甲州系」「甲州連」と表記するほど、同郷の結束力が強いことが知られていた。「先輩が後輩の面倒を見る」「利益が出そうな話を共有する」という甲州財閥の互助システムの中で、センターにいたのが若尾と言えるんだと思うね。
県政の取り組みは、甲州財閥の連続線上にある
――知事は県政運営の基本理念に、山梨を内外に開いて山梨の価値を高める「開の国」を掲げています。
長崎:甲州財閥を知れば知るほど、同じだとわかったんです。我々の取り組みは甲州財閥の連続線上にある、と。時を経て甲州財閥の包摂的イノベーションの精神を実行していると言ってもいい。「正統性があるんだ」と意を強くしました。僕が言うと反発する人も多いけど(笑)、「開の国の理念は甲州のDNAです」と言えば反発する人もいなくなる。
小畑:博物館が開館20周年を迎えるにあたり、甲州財閥を取り上げようと思いました。甲州財閥は長く、戦後の経済中心の「お金儲け」の価値観でとらえられてきました。ですが、彼らがどのようにして世に出てきたのかを見ると違う側面が見えてくる。
知事の言葉を拝借するなら、「DNAに起因する」ということを示せるかもしれない。私たちが地域に対する自信を取り戻すきっかけになるような、そんな企画展にできないかと考えました。
長崎:いやー、あの展示を見た人は、みんな自信を持ったと思いますよ。僕は見た瞬間、県民にもっと知ってもらいたいと思いました。郷土のことを知り、奮い立って外の世界に踏み出してみるきっかけをつくる。これが、本来の県立博物館のミッションだと思います。
小畑:ありがとうございます。甲州財閥の常設展示もしていたので、積み重ねができてきていました。史料が集まってきて、それぞれの史料がつながって読めるようになったんです。甲州財閥研究の第一人者といえば山梨大学の齋藤康彦名誉教授ですが、私たちはもう少し彼らのスピリットや彼らを育んだ土壌に注目して、今回の企画展に至りました。

山梨の風土が「包摂的イノベーション」の精神を生んだ
――今回の対談にあたって、山梨の風土を縄文時代から解き明かした書籍『山梨とは何か』※をまとめた、山梨デザインセンターの永井一史センター長に寄稿いただきました。
寄稿
山梨の風土が生み出した
「開拓」と「結」の価値観
山梨の歴史を振り返ると、この土地の歩みは「制約からの創造」の連続であったことが見えてきます。四方を山に囲まれ、海を持たない内陸の地形。扇状地が広がり、水害も多い自然環境。しかし先人たちは、その制約を乗り越える知恵と技術を育みました。果樹農業という独自の産業や、ジュエリー・精密機械といった世界に誇る高付加価値産業も、この土地から生まれています。
同時に、その風土は、外へと向かう気概を人々の中に育て、戦国の世にこの地を治めた武田信玄をはじめ、傑出した個人を世に送り出しました。
時代が下り、幕末の開港を機に、横浜で生糸貿易に活路を見いだした甲州商人たちは、鉄道・電力・金融など当時まだ誰も手をつけていない領域を開拓していきました。のちに甲州財閥と呼ばれた彼らは、地下鉄や私鉄沿線のまちづくりなど、現在の私たちの暮らしの「当たり前」を数多く生み出しています。
外へ挑むこうした気概を根づかせたのは、内側で人々を固く結びつけてきた支え合いでした。代表的な「無尽」という相互扶助の仕組みは、山梨社会を支えてきた強固なソーシャル・キャピタルです。祭りや方言を通じて世代を超えた絆を受け継ぎながら、人々は「結びつき」をつむいできました。
こうした営みの積み重ねの中に、「開拓」「結」といった価値観が育まれてきました。
まず私たち自身が、山梨の価値とは何かを自覚すること。そこから未来の地域づくりは始まります。未来の山梨は、この豊かな土壌の上に、私たち自身の創造力によって築かれていくのです。
長崎:そうなんです。甲州財閥は歴史的に見て、「特異な現象」ではなく、山梨の風土が生んだ必然だったことがわかります。『山梨とは何か』には、「豊穣」「清澄」「開拓」「共創」という四つの要素が山梨には根づいていると書かれています。
中でも私は、チャレンジを奨励する「開拓」と、仮に失敗しても周囲が支え合う「結の心」に注目しています。そういう行動の積み重ねが包摂的イノベーションの精神を生み出したんだと思います。
※『山梨とは何か』を読むには、こちらから
小畑:展覧会では「彼らの存在こそ、山梨県民がプライドを持てる根拠なのだ」と、光を当てたつもりです。
長崎:甲州財閥への関心が深まらなかったのは、「甲州商人」※がいいイメージを持たれていないことが影響しているんでしょう。抜け目のなさを評して、「甲斐商人の通った後はペンペン草も生えない」なんて言葉が残っているほどですし。
※甲州商人:山梨出身の商人全般を指す。江戸時代、生糸、繭(まゆ)などを各地で売り歩いた人々。江戸末期になって、利益を得た甲州商人の一部が鉄道ビジネスなどに進出し、甲州財閥と呼ばれるようになった
小畑:東京の経済界から見た甲州財閥は「面白いはずがない存在」でした。東京のインフラ会社の多くを株で支配していましたから。鉄道、東京電燈に加えて、東京瓦斯(現・東京ガス)でも若尾や根津が大株主になっていましたし。まあ、それだけ彼らが優秀だったということに尽きるのですが。

共創を生んだ?原七郷のメロン栽培
――知事が展覧会で最もグッと来た点はどこでしたか。
長崎:若尾逸平の富士身延鉄道(現・JR身延線)のエピソードです。若尾は現在のJR中央本線の建設に尽力しただけでなく、中央本線の効果を山梨県内各地へと広げるため、中央本線につながる馬車鉄道をつくろうと考えた。まずは多くの参詣者が来る身延山方面だ、と。
それって、今の県庁の考え方と一緒なんですよ。私たちは、リニア中央新幹線の山梨県駅ができることの効果を全県に広げなくてはいけないと考えています。
小畑:あの展示は、リニアに通じるというのは少し意識していました。
長崎:やっぱり、そうなんですね。鉄道事業というのは沿線が豊かになって、結果的に自分たちも儲かる。そういうビジネスモデルです。鉄道会社たちだけが儲けようとは思っていない。そのことが、あの展示でよくわかりました。
小畑:甲州財閥の起点となる若尾逸平は、巨摩郡在家塚村の生まれです。原七郷(甲府盆地西部・御勅使川の扇状地上に位置する七つの村の総称)の一つで、「お月夜でも焼ける」と言われるほど、水に恵まれず、江戸時代に徳島堰ができて何とか米をつくれるようになった地域です。しかも若尾は次男坊ですから、外に出て出世しなくてはならない。ハングリー精神がありました。
その原七郷で、若尾よりずっと後の時代になりますが、大正時代の終わりにメロン栽培が始まりました。どこかの農家が栽培に失敗すると、地域全体の失敗になっちゃうから、共同で貯水池をつくるなどして、全体での収穫量アップを目指します。結果的に、資金が乏しい農家もメロン栽培に参入しやすくなりました。
長崎:その話、すごく甲州財閥っぽい。
小畑:時代こそ違いますが、横のつながりを大切にする気質を、この原七郷が育てたんです。東京で成功した若尾と、メロンの温室組合は、地続きになる。それが、みんなが豊かになっていく甲州財閥的特質になっていったと思うんです。
長崎:共創の心ですね。自分だけよければいい、ではない。

ブレずに「一歩先」を見極める甲州人
小畑:若尾には「甲州の水晶を売りに行くのに、甲府から横浜まで一晩で歩いた」という逸話もあります。目的意識が確かで、そこに向かうときブレがない。これも甲州財閥の特質だと思います。
長崎:流れができると一気に結集できる。そういう県民性はいまも感じます。
小畑:そのブレなさは、「先進性のちょうど良さ」とセットでした。小林一三は「ビジネスで成功するのは、常に『十歩先』を見る者である」と言っています。「百歩先」など先を見すぎれば、あとに続く人たちの踏み台にすぎなくなってしまいます。
雨宮敬次郎は日本初の民間機械製粉業(泰靖社、現在のニップン)を始めました。早川徳次は軟弱な地盤の東京で地下鉄を開通させました。今の東京メトロです。二人とも海外で実物を見て、「事業として成り立つ」と見極めてから始めています。ロマンもあったでしょうが、「必ず次の社会を支えるものになる」という確信があったから、やろうと決めたのだと思います。
長崎:見極めたうえで、決めたらブレずに進む。それが、時代を超えて受け継がれたのかもしれませんね。
聞き手・矢部万紀子、写真・小山幸佑
シリーズ「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」全6回
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