根津が遺した「自分で考える力」知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす #6

歴史研究者の本郷和人さん(65)は、
根津嘉一郎が設立した武蔵高等学校中学校の53期生。
1979年3月に同校を卒業、
東京大学文学部、同大学院へ。
東京大学史料編纂所を今年3月、定年退職した。

連載「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」の第6回。
中世史専門家の語りは、
6年間を過ごした武蔵で感じた「根津イズム」から始まり、
「武田信玄と根津」へと広がっていった。

■この記事でわかること
✔ 根津嘉一郎の教育の理想は「自ら調べ自ら考える力」。教えないことも教育だった
✔ 大赤字でも信玄は甲府を動かず、根津も見返りを求めなかった。ともに「人々のため」に私財を投じた
✔ 甲州財閥が今に伝えるメッセージは「ノブレス・オブリージュ(上に立つ者は下に返す)」だ

■おすすめ記事
・世界をまたにかけて「山梨の先進技術を売る」
・ふるさとの価値を再発見! 『山梨の文化的テロワール』を解き明かした冊子が完成 

生徒をほったらかす勇気

 武蔵には「建学の三理想」(①東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物 ②世界に雄飛するにたえる人物 ③自ら調べ自ら考える力ある人物)があります。僕らがすごく言われていたのは、3番目の「自ら調べ自ら考える力ある人物」です。

 ChatGPTはそれを「生徒をほったらかす勇気」だと言っていました。あ、友だちがいないので、この取材を受けるにあたって、根津嘉一郎と武蔵のことをChatGPTと話し込んだんです(笑)。教えないことも教育には必要で、根津さんが作ったそういう精神が今でも生きているね、とChatGPTは言いました。僕自身もそんな感じはしていたんです。

根津嘉一郎ねづ・かいちろう

 1860(万延元)年、甲斐国山梨郡正徳寺村(現・山梨市)の豪農の家に生まれる。病弱だった兄に代わり家督を相続、県内で一二を争う大地主に。山梨県会議員時代に知り合った40歳年上の若尾逸平から「株を買うなら『乗りもの』と『あかり』」と助言を受け、鉄道株と電灯株に投資、財を築く。

 1896(明治29)年、兄に家督を譲り東京へ。相場師から実業家へと転身、東武鉄道の経営再建などから後に「鉄道王」と称される。

 1909(明治42)年、渋沢栄一の渡米実業団に加わり、ロックフェラーと会い、「寄付」という考えに感銘を受ける。1922(大正11)年、私財を投じて日本で初めての私立7年制高等学校・武蔵高等学校(現在の武蔵高等学校中学校)を設立。茶の湯を嗜み、古美術品も収集。1940(昭和15)年、病気のため没する。翌年、息子の藤太郎(2代目嘉一郎)が「根津美術館」を開館、コレクションを展示。

出世を求めない、好きなことをやれ

 高校3年分の教科書を1年で学び、2年生からは受験対策。私立の進学校でよく聞きますが、武蔵ではそういうことは一切なかった。あったのは、授業と関係なく自由に研究し、その成果をまとめて提出する。優れたものと判断されると理系なら「山川賞」、文系なら「山本賞」をくれる。そういうものでした。

「山川」は物理学者の山川健次郎。「山本」は哲学者の山本良吉。2人とも根津が武蔵を作った時に連れてきた人で、山川が2代目の校長、山本は初代教頭で3代目校長です。山川は東京帝大などで総長を務め、会津藩士の家に生まれた白虎隊の生き残りでもあった。山川は創立から教頭と校長を通算20年務め、僕らの知っている武蔵の基礎を固めた。

 僕は中高とも民族文化部に所属していて、2年連続で山本賞をとりました。楽しかったなー。僕は遊んでいただけなんですけど。夕方になると近所の中華料理屋から出前をとって、ラーメン食べて。

 山本賞の中核を担ったのは工学院大学の理事長をしていた後藤治です。もう一人「学校始まって以来の秀才」と言われた大津透という男もいました。彼は3月まで東大で古代史を教えていたんです。「学校始まって以来の秀才」が古代史の学者になるというのが武蔵の面白いところでね。出世を求めない、好きなことをやれ、なんです。

押し付けないのが「根津イズム」

「民尊官卑」という言葉がありますよね。武蔵は官僚を生み出す学校ではないというのが、最初からあったのだと思います。政治家にもなるなということで、首相になった宮沢喜一さん(旧制武蔵高校卒)の他にはあまりいません。出世してなんぼのもんじゃいという感じで、ガツガツした感じの一切ない学校でした。

 根津嘉一郎という人は「一高・東大」というルートの人ではない。それもあっての「民尊官卑」でしょう。

 僕は母親が「孟母三遷」みたいな人だったので、越境で麹町小学校に通っていたんです。強烈なエリート意識を植え付ける学校でした。制服があって、でも公立の小学校なので「制服」と言えないから、「お揃い服」って言うんです。ね、嫌らしいでしょ(笑)。

 だから武蔵に入った時、いい学校だと心から思いました。制服もない、人さまに迷惑をかけなければ何をしてもいい。親の出自とかも一切お構いなし。卒業後に「あいつん家、大金持ちなんだぜ」って、親が社長をする会社の名前を聞いてびっくりしたことがあります。

 ChatGPTも言うように、根津嘉一郎が作ったものが今も生きているんです。でも生徒の立場からすると、根津色を感じたことはありません。根津という名前は知っているけれど、それで何かを押し付けられたことはない。根津イズムを感じさせないのが根津イズム。そんな気がします。

信玄を調べて、感動した2つのこと

 海音寺潮五郎が好きで、最初に見たNHK大河ドラマは海音寺原作の『天と地と』(1969年放送)です。主役の謙信が好きで、ライバルの武田信玄にいいイメージを持っていませんでした。でも信玄を調べて、僕、割と感動したんです。

 家督を継いだ時、信玄は甲斐国をほぼ支配していました。そこから信濃に手を伸ばし、10年かけて制圧するんです。これはとてつもない速さで、優秀な武将だったことは間違いありません。制圧したら向こうに謙信がいて、そこから10年かけて川中島で戦い、信玄のものになった。

 川中島って今の長野市です。甲府から長野市までえっちらおっちら行くって大変ですよ。例えば諏訪か上田に本拠地を移せば、ぐっと効率が上がる。その後、群馬にも手を広げるから、上田がよりいいわけです。だけど信玄は最後まで甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館(現在の武田神社)から動きませんでした。甲府にこだわるんです。

 当時、本拠地を移すという戦い方は一般的ではありませんでしたが、織田信長はしていた。信長がうまくいっていることを信玄は知っている。それでも動かない。それが「おっ」と思った一つ目。二つ目は信玄堤です。

信玄堤ってなに?

戦国時代、武田信玄が、氾濫を繰り返す釜無川の水害を防ぐために築かせた堤防だよ。甲府盆地を守る大工事で、武田家が滅びたあとも、今なお治水の役目を果たしているんだ。

 釜無川の氾濫を防ぐため、約20年かけて信玄堤を作った。信玄が設計したわけではないけれど、全国から技術者を集め、莫大な資金を投じました。だけど、守れた田畑の面積はさほど広くない。立派な土木事業ですが、結果的には大赤字なんです。大赤字なのになぜ、と言えば、甲府が好きなんですよね。だから山梨の皆さんが信玄を好きというのは、相思相愛だと思います。

人を作るには時間がかかる

<根津の山梨への思いは、1938(昭和13)年に出版された根津の『世渡り体験談』に「郷土ぐらゐ此の世で結構なところは無いのだから、郷土を無視して、成功を夢みるなどは、愚かな話である」と書かれている>

 コスパだタイパだって、言いますよね。ある意味、浅ましい考え方だと僕は思うけれど、とにかく信玄はそういう尺度でなく、人々のためにということを考えた。根津も武蔵を作ったけど、東武鉄道に入る人材を養成したわけではない。人を作るにはものすごく時間がかかることをわかっていて、見返りを求めていないんです。根津に限らず甲州財閥の人たちは、稼いだお金を社会に還元した。素晴らしいお金の使い道をした人たちですよ。

<根津は昭和に入り、山梨県内の全小学校にピアノ約200台を寄贈した。また顕微鏡やミシンなども贈り、1961(昭和36)年に編纂された『根津翁伝』には寄付総額34万2000円余りとある。甲府城跡に建てられた図書館の建築費(約5万1000円)を負担したのも根津だった>

 大谷翔平選手が日本の全小学校に贈ったグローブみたいですね。素晴らしい。日本はいまだに寄付文化が根付いてないけれど、根津の目は社会に向いていた。学校を作り、故郷の教育に寄付し、散逸を防ごうと美術品を買い集めた。美術史を学ぶ人間にしたら、根津美術館は本当にありがたい場所ですよね。

上に立つ者は、下に返さなくては

 甲州財閥が今に伝えるメッセージといえば、ノブレス・オブリージュでしょう。

ノブレス・オブリージュってどういう意味?

「高い地位や富をもつ人には、それに見合う責任がある」という考え方。もとはフランス語だよ。

 上に立つ者は下に返さなくてはいけない。お金を儲けた人は、それに見合う振る舞いをしてこそ尊敬される。尊敬を受けるべき義務がある。そういうことをきちんと理解し、行動していたのが甲州財閥の人たちだと思います。

 信玄も人気取りという側面もあったかもしれませんが、そこに生きる人たちを思い、生活を守るために信玄堤を作った。武田家は滅んでも、信玄堤は現役です。民草が暮らす社会にお金を使うということは、今、すごく大切なことだと思います。

甲府と江戸は感覚的に近い

 山梨が海なし県だということも大きい。生活必需品の塩が獲れない。農地がさほど広くないということもあって、出稼ぎや商取引が盛んになった。商人的色彩は信玄の頃から強かったのではないでしょうか。甲州界隈から出てきた商人は江戸で活躍するんですよ。

 徳川家康は武田信玄のしたことをすごく学びました。武田家の滅亡後は旧臣を召し抱えもした。だから甲府と江戸は近いんです。距離というより感覚的な近さがある。

 甲州が天領になる以前、甲府藩の藩主になったのは江戸幕府にとって特別な人ばかりです。例えば徳川綱豊は藩主から6代将軍・家宣になり、綱豊の次の藩主は5代将軍・綱吉の側用人で知られた柳沢吉保です。だから江戸にとって甲府は、感覚的に近いんです。逆もまた然りで、甲府の人にとって江戸は近しい土地だった。甲州商人が江戸で活躍したのはそういうことが関係していると思います。

本郷和人(ほんごう・かずと) 1960年生まれ。東大史料編纂所教授を経て、2026年4月から藤田医科大学特命教授・リベラルアーツセンター長。専門は日本中世政治史、古文書学。近著に『こわい日本史』(扶桑社)など。YouTubeチャンネルを開設し、歴史学と社会をつなぐ「ヒストリカル・コミュニケーター」になる準備中

東京スカイツリーは根津そのもの

<小林一三は1935(昭和10)年に出版された『私の行き方』で「武士がゐなかったもんだから、明治維新になつても、士族というものが出来なかった。僕たちは士族なぞちつとも偉いとは思わなかつたよ」と書いている>

 その感覚が、根津にもある。だから武蔵には出世など立派なもんじゃねえぞ、っていう感じが脈々と流れているのだと思います。

 僕らが武蔵の生徒だった時は、西武鉄道のほうがカッコよかった。今は逆転してるかもしれないけど、やはり東武鉄道は地味ですよね。東京スカイツリーが象徴的かもしれません。

 高さ634メートルなのは、ムサシ=武蔵から来ていると僕たちは知っているけれど、ほとんど言われてないでしょ。色も、真っ赤な東京タワーとは全然違う。派手じゃないっていうより、淡すぎ、地味すぎ。そういうところが根津そのものかもしれないな。なーんて僕は武蔵が大好きなんで、ついこういうことを言ってしまうんです。

聞き手・矢部万紀子、写真・山本倫子

関連記事一覧