
「雨敬」の豪快さは綿密さでできている知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす #5
連載「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」の第5回の語り手は、
甲州市から県文化振興・文化財課に出向中の
髙野愛さん。
市役所時代には雨宮敬次郎の企画展を2度担当、
以来「雨敬さんがライフワーク化しています」。
鉄道経営、民間初の機械製粉業、軽井沢での植林など多種多様な事業を手がけた雨宮について、「いろいろな『はじめの一歩』を作った人」と髙野さん。県内で甲州財閥への注目が集まる今、全国の人にも雨宮を知ってもらいたいと静かに燃えている。
■この記事でわかること
✔ 塩山の子どもたちにとって、雨宮敬次郎は有名人
✔ 豪快なイメージが強い雨宮敬次郎は、実は、はしごを「踏み締め踏み締め」て登るほど慎重な人でもあった
✔ 軽井沢も、熱海も、最初に種をまいたのは、雨宮敬次郎だった
✔ 雨宮敬次郎の親友は、伊藤博文だった
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目次
塩山の子は「雨敬さん、知ってるよ」
歴史が好きで、大学では近代史を専攻しました。県外の大学でしたが、卒論は山梨県の郡内地方の自由民権運動について書きました。生まれた山梨県の歴史に子どもの頃から興味がありましたから、甲州財閥も雨宮敬次郎も知っていました。
甲州市役所に就職し、文化財保護課で2023年に「明治の鉄道王 雨宮敬次郎展」、2024年に「鉄道王と呼ばれた男 雨宮敬次郎の生涯」と2度、雨宮の企画展を担当しました。その関係で講座の依頼もいただくようになりました。
雨宮敬次郎あめみや・けいじろう
1846(弘化3)年、山梨郡牛奥村(現・甲州市)の筆頭名主である農家の次男として生まれる。一宮浅間神社の私塾で学ぶ。卵の行商から始め、1871(明治4)年に横浜へ移住、両替屋に住み込みで働き、相場を覚える。1876(明治9)年、蚕卵紙を売りにアメリカとイタリアへ渡航、大きな損害を出す。
1879(明治12)年、東京府南葛飾郡(現在の東京都江東区)に日本最初の機械製粉会社「泰靖社(現在のニップン)」を創立。1883(明治16)年、軽井沢の大規模な開墾、植林事業に着手。1886(明治19)年、「甲武鉄道」(内藤新宿―羽村)株を買い占め、実質的なトップに。1889(明治22)年、山梨鉄道株式会社を作り、甲府まで甲武鉄道を延長するための請願書を国に申請。1896(明治29)年、豆相人車鉄道(小田原―熱海)営業開始。1906(明治39)年、東京・飯田町(現在の千代田区)で還暦祝いをし、高さ75尺(22.7m)の模擬富士山を作る。結核と闘病、1911年1月、65歳で没。
小学校での出前講座など、子どもへの講座もします。子どもたちにはまず鉄道の話から始めます。「甲武鉄道があって、雨宮さんはその経営を立て直し、そこから中央線が甲府へ延びたのだけど、それに尽力したのも雨宮さんだよ」という話をします。「雨宮さんは小田原と熱海の間の豆相人車鉄道を造ったけれど、きっかけは結核の療養だったんだよ」とか。みんな熱心に聞いてくれます。鉄道好きの子どもだけじゃないです(笑)。
塩山の子どもの反応が断然いいです。甲州市は大和村と塩山市と勝沼町が合併してできた市ですが、塩山の子たちは「雨敬さん知ってるよ」とか「雨敬橋、行ったことある」とか言ってくれます。
中央線が八王子―甲府間で開通し、塩山駅ができました。その時に雨宮は駅から生家までの道を所有しました。3年後に還暦を記念してその道を寄付する形で「雨宮新道」を造ります。途中の重川を渡る橋が、私費で造った「雨敬橋」です。近くに雨宮を顕彰する碑も立っているので、塩山の子にとっては有名人なんです。

庭に富士山、自伝に「私は怖がり」
還暦の記念で東京の自宅でパーティーを開きます。雨宮のエピソードはたくさんありますが、中でもこれは好きですね。富士山を作っちゃうんです、庭に、高さ23メートルほどの。雨宮という人は、そういう方なんですよね。
――1906年発行の『風俗画報』には、「雨宮氏の還暦賀宴」が掲載されている。「模擬富士山」の前で着飾る来賓が絵に描かれ、本文には主な来賓名(米国大使、日本の首相、陸軍と海軍の元帥ら)と合計の人数(2千人余)、かかった費用(8万円=今に換算すると2億円超)などが書かれている。
こういうエピソードから、雨宮は破天荒というか、豪快な人に見えますよね。でも雨宮は自伝『過去六十年事蹟』で、「私は他人よりも物を怖がる方である、他人から見れば冒険的のやうだが、其れは一旦決心がついた後の事を見るからで、決心するまでには非常に心配し非常に危険を感ずる」と述べています。
たくさんの事業に大胆に取り組んでいるけれど、勢いだけの人じゃない、調べて調べて、その上で着手しているのだと伝わってきます。はしごを登るのにも、「私は踏み締め踏み締め行く」とも書いてあって、子どもたちへの講座でもその話をします。一面だけで人を捉えないでほしいなという思いと、行動する時は積極性も大切だけどしっかり調べてね、という意味で伝えています。
「今の中央線は私の線路だ」
雨宮は、八王子―甲府間の山梨鉄道計画を立て、「山梨鉄道起業意見書」を1889年から2度、国に提出しています。工事費や予想される利益など、細かい数字が書かれています。計算は得意分野だと知ってはいましたが、それにしても寺子屋と私塾で学んだ人はすごいなーと思います。
でも、意見書は2度とも却下されます。鉄道は民間でなく国が造るという方針転換があった頃で、1892年には鉄道敷設法も制定されます。中央線は軍事的にも重要な路線でしたから、意見書が通るのは難しかったと思います。
――雨宮は『過去六十年事蹟』で「今の中央線は全く私の発見した線路だ。政府は私たちの調査した線路を其のまゝ使用したのだ」と不満をあらわにしている。
偉人の中には回顧録を残してない人もいます。その点、『過去六十年事蹟』は失敗談も含めて包み隠さず人生を語っていて、本当にありがたい史料です。
雨敬はどんな失敗をしたの?
行商をしていた雨敬は、蚕卵紙(蚕の卵を産み付けた紙)の投機ビジネスで一攫千金を狙った。でも、相場が暴落するなどして、27歳ぐらい(1877年)に無一文になったんだ。
その後に製粉や鉄道のビジネスを始めたの?
そのとおり。その後も投資や事業による浮き沈みを味わって、「投機界の魔王」という異名をとるほどだった。それでも、雨敬は常に新しいビジネスに挑戦し続けたから、人々に「天下の雨敬」と言われたのかもしれないね。
荒れた熱海に人が押す鉄道を
雨宮の足跡をたどって、熱海にも行きました。江戸時代は将軍家に温泉を献上するほど栄えていた熱海ですが、明治になると鉄道網からぽっかり取り残され、荒廃が進んでいました。地元の人に相談された雨宮が1896年に敷いたのが豆相人車鉄道で、その後、小田原―熱海は約4時間でつながりました。
熱海は今でも起伏が激しく、狭い道が多いですよね。そこで雨宮は人が車を押すなら初期投資も少なく、狭い幅でも通せると思いつきます。雨宮には結核を患い、熱海で湯治した経験がありました。人力車で行き、揺れで体調が悪化したんです。線路の上の車両を人が押している写真は今では少し滑稽に見えますが、柔軟に真剣に考えた結果だと思います。
――人車鉄道は人件費がかかることから雨宮は1907年、動力を蒸気に変えた「軽便鉄道」にする。熊本軽便鉄道、山口軌道、広島鉄道など8社を合併した「大日本軌道」を設立、雨宮は「軽便鉄道王」と呼ばれることになる。
熱海の梅園に、雨宮の碑「雨宮敬次郎翁碑」があります。もちろん行きました。みんな梅を見て歩いている時、私だけ碑を探して下を見て(笑)。写真に撮りました。「翁の先見性と絶大な努力がなかったならば熱海の今日の発展はなかったでありましょう」と刻まれています。
江戸の終わりに生まれ、明治に育った勢いのある雨宮が、今の熱海の最初の種をまいた。素晴らしいです。

軽井沢の失敗が140年後に…
軽井沢も観光地、避暑地として大人気ですが、最初の一歩は雨宮です。1100町歩(1090ヘクタール)を私費で買い、開墾、植林しました。その場所は雨宮の名前が地名になっています(軽井沢町大字軽井沢雨宮新田)。
雨宮は軽井沢にブドウの苗を植えたのですが、失敗に終わりました。でも今、軽井沢にワイナリーがあるんです。「軽井沢アンワイナリー」といって、2023年にできたばかりです。そちらも訪ねました。ワイナリーに雨宮の写真が飾ってありました。
ブドウ栽培から醸造までするワイナリーで、2026年には国際的な賞も受賞しています。雨宮の失敗が、140年経って成功している。ワイナリーの方から「雨宮さんの写真、他にもあったらください」なんて言われて、うれしかったです。軽井沢町歴史民俗資料館にも取材に行きました。企画展をきっかけに市外の雨宮ゆかりの方々とつながれて、それもうれしいことです。

妻思いでお茶目。そして戦略家
――軽井沢には雨宮の銅像があり、隣には妻の信子像もあった(どちらも現在は台座のみ)。雨宮像は還暦記念に製作され、同じ製作者に雨宮が依頼、翌年に信子像ができた。信子の亡くなった6年後のことだ。
妻思いの一面がある人ですよね。あの時代の人で、自分から妻の銅像を建てるって、聞いたことないですから。何度も一文なしになるような雨宮についていった信子さんと、二人三脚で歩んだんでしょうね。
雨宮は本当にいろいろな面のある人です。県立博物館の甲州財閥展で、雨宮が鉄管不正問題で収監された(半年後に不起訴・釈放)時の姿を再現したという写真を見ました。『仲買人雑誌』に掲載されたそうですが、大まじめな顔で右手の親指を立ててるんです。お茶目というか、自分で自分を面白がるというか、そういうところがあったんだと思いました。
伊藤博文と親友でした。伊藤は塩山の雨宮の生家を訪ねているんです。中央線が正式に開通する3カ月前のことで、わざわざ作業用列車で来たんです。雨宮は塩山に仮駅舎を造り、生家までの道に玉砂利を敷き、宿泊用の離れも新築しました。
仮駅舎の場所は史料も残っていないのですが、平らなところにしか造れないと思うんです。そうすると今の「牛奥踏切」しかなく、多分そこだろうと写真に撮って講義で見せたりしています。

雨宮と伊藤は単に「気の合う仲間」だったとは思いません。政治的なというか、ある意味、狙いがあっての付き合いだと思うんです。政財界の他の方々とのつながりもそうで、多分いろんなことがうまく進むように考えてのことだったはずです。行動に裏打ちがある、調べて進む。そういう人だということの表れだと思います。
調べるほど伝えたくなる
――2026年は、雨宮の生誕180年にあたる。
甲州市では生誕180年を記念した展覧会を開きます。雨宮という人は調べれば調べるほど「伝えたい」と思う人です。
甲州財閥の重要人物として県内の注目は高まっていますが、全国の人に知ってもらいたいと思っています。これからさらに調べたいのは、鉄道関連でしょうか。部品の製造や輸入もしているので、そのことや、各地の軽便鉄道の経営などを調べたいです。
雨宮が製鉄業に進出した岩手県北上市、大日本軌道の支社を置いた小田原など、雨宮ゆかりの地はまだたくさんあります。他の県、市町村と雨宮を通じた交流もしていきたいと思います。
聞き手・矢部万紀子、写真・小山幸佑
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