
早川徳次の言葉は地下水のように知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす #3
甲州財閥の一人、
早川徳次に今も助けられている人がいる。
東京メトロに2025年4月にできた
「継承・活用推進室」の室長、
石原佐智子さんだ。
石原さんによると、早川は先見の明がある
「地下鉄の父」であるのはもちろんのこと、
家族と社員を思いやる優しい人だったという。
昭和の初めだというのに、
「ワークライフバランス」を唱えていた。
連載「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」の3回目。石原さんに早川のことを熱く語ってもらった。
■この記事でわかること
✔「地下鉄の父」早川徳次がつくった「社員讀本」はいまも、東京メトロの社員研修などに使われている
✔ 地盤が弱い東京で、巨額の費用がかかる地下鉄建設は不可能と言われていた
✔ 早川徳次は新進気鋭の芸術家を応援し、育てようとしていた
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目次
もうダメだと思うたび、早川に助けられた
入社してから、いろいろな部署で仕事をしてきました。最初は副都心線や半蔵門線の延伸の仕事をして、運賃の担当や霞ケ関の駅長をしました。
2016年から5年間、PASMOの仕事をしました。PASMOがスマホで利用できるようになったのが2020年、その準備と実施です。各事業者にそれぞれ意見があり、それまでで最も大変な仕事でした。
行き詰まった時、ふと手に取ったのが「社員讀本」でした。「地下鉄の父」である早川徳次が定め、1939(昭和14)年に刊行された社員教育用の本で、今も当社では社員研修などに使われています。
私は新入社員研修で渡されたのですが、その時はあまり興味を持ってはいませんでした。でも、後年に読み返した時、すごく励まされて。これまで、もうダメだと思うことが何度かありましたけど、この本に書かれた早川の言葉を思い出しては自分を鼓舞しました。早川に何度も助けられたのです。
社員讀本の教え「時を見て」「小異を捨てる」
社員讀本には、五つの社訓が書かれています。
その第二に「誠心誠意、協力一致して社務に努力すべし」とあります。これに早川は「自分にいかに確信があっても、全体の平和のために、一時己を抑え、時を見て、円滑に自分の考えを通す」と補足しています。
己を抑えて、自分の考えを通す。両立するのは難しいように思いますが、「時を見て」という言葉がはさまっている。状況を見極める、時流を読む。そういうことが肝要で、大局を見て自分の考えを通しなさい、ということです。
深いですよね。
社訓の第五は「前途に希望を抱き、啓発に努むべし」。さらに早川は続けます。希望に向かって進んでも、初めは効果が出ない。でも、ある時期を過ぎてようやく見えてくるから続けて希望に生きよ、と。
まだ終わりません。
困難や挫折に見舞われる雌伏の時には、「小異を捨て、小我を去る」と言うんです。
仕事をしていると、小さいことにとらわれて行き詰まりがちになります。そういう時こそ、小さい違いや小さい自分は捨て去れと。そして大局を見て、時をとらえて成し遂げよ。それが早川の教えです。私にとっては、仕事を進める上での指針です。
早川のDNAがよみがえった新たな社名
早川が1920(大正9)年に設立した東京地下鐵道株式会社は、1941年に帝都高速度交通営団に引き継がれます。その営団が2004年に民営化されるにあたって、社名をどうするか社内で議論しました。そこで決まった「東京地下鉄」※は、早川の「東京地下鐵道」を強く意識したものです。
新社名が決まった時に「地下鉄の父」早川のDNAが再びよみがえった。そんな感じを、社員は持ったと思います。
※正式名は東京地下鉄株式会社。「東京メトロ」は愛称

早川徳次はやかわ・のりつぐ
1881(明治14)年、東八代郡御代咲村(現・笛吹市)で生まれる。父は御代咲村の村長。早稲田大学在学中に後藤新平の書生に。卒業後、南満州鉄道に入社。南満州鉄道初代総裁だった後藤が鉄道院総裁に就任したことに伴い、鉄道院へ。根津嘉一郎と出会い、根津の勧めで佐野鉄道(現・東武佐野線)などの再建にあたる。
1914(大正3)年に渡英、ロンドンの地下鉄を見て感銘を受け、日本への導入を決意する。1927(昭和2)年、東洋初の地下鉄(東京地下鐵道)が上野―浅草間で開通。当時専務。1940(昭和15)年に社長に就任したが、11カ月で退任。山梨県に戻り、生家の土地に若い世代を育てる「青年道場」建設に着手したものの、1942(昭和17)年に急逝した。
「地下の蜘蛛の巣」は今も広がる
早川が残した印象的な言葉はたくさんあります。
一つは「今に東京の地下は蜘蛛の巣のように地下鉄が縦横に走る時代が必ず来る」で、早川が社長退任後も口にしていたという言葉です。
もう一つは「必要の事は何時か必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変へて行く」(1934年刊『東京地下鉄道史 乾』)で、早川の先見の明とそれへの確信、成し遂げようという強い意志が伝わってくる言葉です。

当社は現在、有楽町線と南北線の2路線延伸プロジェクトを進めています。2027年に地下鉄開通(上野―浅草間)100周年を迎えますが、「地下の蜘蛛の巣」はまだまだ絶賛拡大中なのです。
東京には地下鉄が絶対に必要だという信念を持ち、地盤の弱さへは調査と技術で、巨額の建設費は甲州の先輩方などこれまで築いてきた人脈や民間企業による協力などで工面して、不可能を可能にしていった。
現在進行中の2路線の延伸は2030年代半ばを予定しています。早川の第一歩があったからこそ、と思うと感慨深いです。
ほかにも印象的な言葉はたくさんありますが、きりがないんです。だから、きょうはこの辺にしておきますね(笑)。
「慈父厳母」を敢行する
社員讀本の「はじめに」に、「仕事をするに大切なるものは人である。一も人、二も人、三も人であると思ふ」と書かれています。とにかく社員と血の通った関係性を築いて、事業を進めていこうとした人です。
あまり知られていないのですが、早川は「慈父厳母主義」という言葉を残しています。雑誌に載った記事が資料として残っていて、早川がお嬢ちゃんと縁側に座っている写真が大きく載っています。そこで早川は、「世の中では厳父慈母が普通だけれど、あまりうまくいっていないようで、うちは慈父厳母主義を敢行しております」と話しているのです。
お茶目という言葉は適当でないかもしれませんが、ウィットに富んでいて、優しい人なんだと思わせますよね。社内でも夜中の作業現場に顔を出したり、野球やテニスなどの大会を開いて社員と記念写真に収まったり……。大正から昭和の初め、社員はうれしかったと思います。
早川はとにかく生涯を通じて、人とのつながりを蜘蛛の巣のように広げ、それを最大の財産だと思っていた人じゃないかなと思います。
甲州財閥の「共通点」に合点
早川と甲州財閥を結びつけた根津嘉一郎は、早川を見込んでずっと支援してくださった。私はこれまで、「日本の鉄道王・根津と地下鉄の父・早川は共に山梨の出身で、同郷の先輩後輩だな」くらいの認識でしたが、2025年秋の「甲州財閥展」を拝見し、甲州財閥の面々が皆、先見の明、不屈の精神、進取の気性、合理的商才と共通する特質を兼ね備えていると知り、合点がいきました。
早川も信念の人で、アイデアマンで、新しいもの好きでもありました。今では一般的になりましたけれど、地下鉄建設では沿線の百貨店から一部建設資金の提供を受けたり、路線・駅の好立地を活かして「デパート巡り乗車券」を販売したり、イベントやサービスと地下鉄乗車を組み合わせて地下鉄の利用促進を図ったりするなど、常に創意工夫を重ねていました。
根津嘉一郎はどんなことをした人?
甲州財閥の起点となった若尾逸平から「株を買うなら『乗りもの』と『あかり』」と助言を受け、鉄道株と電灯株に投資したビジネスパーソン。東武鉄道の経営再建などから後に「鉄道王」と言われた。
東京に根津美術館があるけど、関係ある?
うん、関係があるよ。根津は茶の湯をたしなむ人で古美術品を収集していて、没後に息子が根津美術館を開館して、彼のコレクションなどを展示しているんだ。
なぜ甲州は先頭を切れたのか
私個人の見立てですけれど、甲府盆地の地形、気候などが影響したのだと思うのです。
甲州では、主食の米作よりも、「甲州八珍果」とも言われる多種の果樹栽培や生糸など、換金しやすい作物の生産が古くから盛んでした。そして、その作物を効率的に、他の産地に勝る品質にして生産し、さらに付加価値をつけて消費地に運んで少しでも高く売っていかなくてはならない。
甲州は東京や横浜に地理的に近い。それが幸いしました。こうした背景や環境があって、真っ先に鉄道を敷いてみようという気概が生まれたのかなと思うんです。
甲州は商売上手になるのが自分の生きる道であり、甲州の生きる道、視野を広げれば日本の生きる道につながるはずだ。そう思い、先頭を切って進んでいった。それが甲州財閥の先輩方だと感じます。

昭和初めに「ワークライフバランス」提唱
早川は1938(昭和13)年、現在の神奈川県逗子市に社員研修施設「聖智寮」を建てました。その後、営団が聖智寮を譲り受け、平成の初め頃まで研修や福利厚生施設として使っており、私も新入社員研修をそこで受けました。
聖智寮を作るより前の1928(昭和3)年に、早川は「避暑は遊山ではない」というコラムを書いています。「ただむやみに働き続けることが能率を高めることだと考えることは、非常な間違いだと言いたいのである」と。まさにワークライフバランスの考えですよね。すごい先見の明です。
聖智寮には、圓鍔勝三さんの彫刻「四聖人(孔子、釈迦、キリスト、聖徳太子)」がありました。圓鍔さんは日本を代表する彫刻家で、1988(昭和63)年に文化勲章を受章されています。でも四聖人を作ったのは34歳の時。早川には、新進気鋭の彫刻家を応援したい、若い芸術家を育てたいという意志があったのかと思います。
四聖人は当社の総合研修訓練センター(東京・新木場)に今も設置されていて、早川の精神を受け継ぐ様子を静かに見守ってくれています。

早川先生、まだまだお力添えを!
当社は今、「目指す人材像」として3つを掲げています。
①自律=高い規範意識のもと、自ら学び、自分の考えを磨き行動
②挑戦=変化の兆しを感じ取り、変化を恐れず行動
③協働=異なる価値観を受容・尊重し、周囲と連携
これ、最初に申し上げた早川の生き方、起業の精神、求める社員像に重なるんです。
先ほどの「慈父厳母」にしても、言葉は全然違いますが「夫婦で子どもを共に育てよう」というメッセージだと思います。早川の言葉は地下水のように脈々と流れ、今日に至るんだなあというのを感じます。
継承・活用推進室としては、まず伝えることが大事です。歴史その他を整理して、伝える。でも伝えられた人が「先人の言葉」として受け取るだけでなく、自分の言葉にすることが大切だと思っています。そうなれば言葉が血や肉となり、パワーに変えられる。自ら行動できる。そういう人材育成を目指したいと思っています。
まだ道半ばというか、半ばなのか全然進んでいないのか、はなはだ心許ないのが正直なところです。ですので早川先生には、是非とも最大限のお力添えをいただきたいと思っております。
聞き手・矢部万紀子、写真・今村拓馬
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