焼け跡を一人で歩いた小林一三知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす #4

連載「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」の第4回は、
政治学者の原武史さん。
山梨学院大学の助教授になって2年目の1998年、
『「民都」大阪対「帝都」東京』で
サントリー学芸賞を受賞した。

鉄道と天皇から日本の近代を読み解くこの本は、
甲州財閥の重要な一角を占めた小林一三の
「反官精神」を描く本でもある。

小林が岩下清周に事業を託されたのは34歳。原さんが山梨学院大学に迎えられたのも34歳だった。原さんの話は、やがて今へとつながっていく。官に頼らない生き方は、今の私たちがどこかに置き忘れてきたものを、そっと照らし出す。

■この記事でわかること
✔ 小林一三は、ズバズバとものを言う生意気な男だった
✔ 小林一三は、お上から補助金をもらわず、官に対抗する鉄道をつくろうとした
✔ 小林一三は、茶をたしなみ宝塚少女歌劇の台本から広告のコピーまで自ら書くなど、経営者としてのA面とまったく別の顔であるB面を持つ人だった

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小林一三と山梨学院大の共通点

 1997年から3年間、山梨学院大学にいました。国立の山梨大学よりずっと有名だったのは、箱根駅伝で3回優勝していたからです。ケニア人選手をスカウトし、留学生として受け入れる。それを思いつき、実現したのは理事長で学長だった古屋忠彦さんです(現在は退任)。

 駅伝で大学を有名にしようなんて、どこの大学も絶対に思わないでしょ。補助金に頼らず、経営を安定させる好循環をつくる。笛吹市出身の古屋学長の「民の発想」ですね。

 サントリー学芸賞を受賞した『「民都」大阪対「帝都」東京』は、山梨学院大学時代に書きました。印象的だったのは、甲府駅南口の県立図書館(2012年に甲府駅北口に移転)に小林一三全集がそろっていたことです。1960年代に出た古い全集ですが、全部そろっている図書館はあまりなくて、さすが山梨だなと思いました。

 官に頼らず自分のアイデアで勝負する。この意味で、小林と古屋学長に共通の県民性があったのだと思います。

原武史(はら・たけし) 1962年、東京都生まれ。明治学院大学名誉教授、放送大学客員教授。『日本政治思想史』『象徴天皇の実像「昭和天皇拝謁記」を読む』『日吉アカデミア一九七六』の著書のほか、共著に『天皇問答』『鉄道旅へ行ってきます』など。鉄道に詳しく、2019年から朝日新聞で「歴史のダイヤグラム」を連載しているほか関連著書多数。

34歳の小林にすべてを任せた男

 小林にとっては、慶應義塾で福澤諭吉に学んだこと、そして1893(明治26)年に三井銀行に入ったあと、大阪支店に配属された影響が大きかった。「福澤の独立自尊の精神が培われたのは大阪」。小泉信三(長く慶應義塾塾長を務めた経済学者、1888-1966)はそう書いています。

 小林にとって大阪行きは不本意でしたが、大阪は、中心部が天領で、天領以外でも武士より商人が活躍していた。だから大阪の方が、東京より甲州的な思想が根付きやすい土地だった。大阪に行ったのは、結果的に小林にとって非常にラッキーだったと思います。

 小林にとって、もう一つの幸運は、三井銀行の大阪支店長・岩下清周との出会いです。

 「日本の近代化のために、銀行が企業に融資することが絶対に必要だ」。そんな岩下の気宇壮大さに小林は共鳴した。

 岩下は箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)を始めるにあたり、34歳の小林にすべてを任せました。小林はズバズバとものを言う生意気な男だったから、そこを見込んだんでしょうね。

小林一三こばやし・いちぞう

 1873(明治6)年、山梨県巨摩郡河原部村(現・韮崎市)の裕福な商家「布屋」に生まれる。1月3日生まれなので「一三」。東八代郡にある私塾「成器舎」で学び、1888(明治21)年、慶應義塾に入学。在学中にペンネーム・靄渓学人で山梨日日新聞に小説を連載。

 1893(明治26)年に三井銀行に入社し、後に大阪支店へ。三井銀行を退社して阪鶴鉄道監査役に。1907(明治40)年に箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)を創立。1913(大正2)年に宝塚歌劇の前身・宝塚唱歌隊を結成。1927(昭和2)年、社長。1929(昭和4)年に梅田駅に阪急百貨店をつくる。1934(昭和9)年1月に社長を辞任。1957(昭和32)年、死去。

小林の「官尊民卑」への反撃

 小林は岩下に恩義を感じ、鉄道事業を成功させるにはどうしたらいいか相当考えた。そこで、福澤の教えが小林の行動に影響を与えます。

 福澤は『学問のすゝめ』で「明治維新後も、日本人は『官尊民卑』の悪習が残っている。人民が政府に依存し、顔色をうかがってばかりいる状態では、国を豊かにし、外国と対等に渡り合うことはできない」と説いています。

 小林は、お上から補助金をもらわず、官に対抗する鉄道をつくろうとします。そのために、官がしないような事業を作り出す。それが住宅ローンであり、歌劇団やターミナルデパートです。

 同時に重要だったのが、梅田駅を大阪駅の南側にすることです。これで箕面有馬電気軌道は、国鉄をまたぐ橋の上を通ることになります。「官より民が上」を視覚的に示す周到な戦略で、ああいう発想はなかなかないですよね。

34歳の僕に、「よし、気に入った」と言った男

 山梨学院大学に着任した時、僕も34歳でした。政治学の公募の最終面接で、古屋学長の前でどういう研究をしたいかを話したんです。学長は50代の半ばでしたね。「ぜひこの大学で、原政治学を完成させてもらいたい」と言われ、いきなり助教授になりました。

 着任の翌年にサントリー学芸賞を受賞後、新聞に肩書と署名入りで記事を書かせてもらえるようになって、掲載紙を持って学長室を訪ね、いろいろな話をしました。山梨学院大学は3年間でやめ、明治学院大学に移りました。古屋学長はとても残念がられました。それでも、その後の著書の奥付には、「山梨学院大学助教授を経て」と書いてきました。

 2024年、日本政治法律学会の現代政治学会賞をいただきました。授賞式が山梨学院大学で行われたので、久しぶりに訪れました。古屋さんの娘に当たる青山貴子学長が出席していたので、出版したての『象徴天皇の実像「昭和天皇拝謁記」を読む』を「謹呈 古屋忠彦先生」とサインして渡しました。

 授賞式後の懇親会中、携帯が鳴りました。出ると、途中で退出された青山学長で、「父に代わります」と。すると、忘れもしない声で「相変わらずフェアだな」と。本の奥付に「山梨学院大学助教授を経て」と書いたことをほめてくださいました。

 ご高齢になり、あまり外出はされないと聞きました。それでも声をかけてくださった。古屋元学長はそういう人なんです。小林一三にとっての師が岩下清周だとすれば、私にとっての師は古屋忠彦なのです。

<甲州財閥のメンバーが手がけた鉄道>

名前生没年・出身地手がけた主な鉄道現在の姿
若尾逸平1820-1913/在家塚村・現南アルプス市東京馬車鉄道の電化、東京電燈都電の源流、東京電力
雨宮敬次郎1846-1911/牛奥村・現甲州市甲武鉄道、北海道炭礦鉄道、東京市街鉄道JR中央線、都電の源流
根津嘉一郎1860-1940/正徳寺・現山梨市東武鉄道、南海鉄道東武鉄道、南海電気鉄道
小野金六1852-1923/河原部村・現韮崎市富士身延鉄道JR身延線
穴水熊雄1880-1958/甲府京王電気軌道京王電鉄
早川徳次1881-1942/御代咲村・現笛吹市東京地下鉄道東京メトロ銀座線
堀内良平1870-1944/黒駒村・現笛吹市富士山麓電気鉄道富士急行線
小林一三1873-1957/河原部村・現韮崎市箕面有馬電気軌道阪急電鉄

※甲州財閥は明治中期から昭和初期にかけて、鉄道・電力・金融を中心に事業を広げた山梨出身の実業家グループ。多くが東京で活躍したため、大阪で活躍した小林は甲州財閥に入れない研究者もいる。穴水熊雄の京王電気軌道社長就任は1937年で一世代あとにあたる

山梨から進取の気性に富んだ人が出てきた理由

 なぜ、甲州財閥が鉄道を次々と手がけたのか。

 明治という時代、近代化には鉄道や電気など新しいインフラを広める必要があり、その使命を甲州の人々が引き受けた。甲州がそういう土地柄だったのでしょう。天領だったから民の活躍する余地が大きかった面はあると思いますが、もう一つ、山梨学院に行ってよくわかったことがあります。

 山梨にとっては、武田信玄が世に出た戦国時代こそ、黄金時代でした。いまでもその余韻が残っています。信玄餅に信玄公祭り、全て信玄でしょ。山梨名物の「ほうとう」は信玄の陣中食に由来するとされ、甲府駅では長らく「武田陣中鍋めし」が名物駅弁でした(現在は販売終了)。江戸時代中期に設置された「甲府勤番」は当初はエリートポストでしたが、左遷先だった時期もありました。

 それが明治になると一転して、東京に隣接していることが有利に働いた。ひと旗上げることが、夢物語ではない。そこでもう一度、山梨から進取の気性に富んだ人々が出てきた。思いつきですが、そんな気がします。

取り巻きを一切つけない小林

 小林の日記を読んで感動したことがあります。

 1945年になると、大阪は日常茶飯事のように空襲を受けます。阪急沿線の大阪・池田に住んでいた小林は、空襲でどの区間がやられたかを1人で確認しに行くんです。自身は1934(昭和9)年に社長を辞任、2年後には会長も辞任していました。

 それからは自宅に風変わりな茶室をつくり、茶道にのめりこむ。空襲が頻発するなかでも危険をおかして茶会に出掛けてゆく。現役時代から取り巻きなど一切つけず、阪急電車に1人で乗り、座っている社員を見つけたら怒鳴りつける。百貨店の視察も1人で行きました。彼の生き方が、独立自尊そのものなんです。

茶室という余白

 小林は経営者でありながら、茶をたしなみ、宝塚の少女歌劇の台本から広告のコピーまで、自分で書いてしまう人でした。かつての経営者には、事業の顔であるA面と、まったく別の顔であるB面がありました。芸道のひとつもできなければ一人前とは言えない。そんな気風がありました。

 政治家も、どんなに忙しくても、週末や夏には箱根や伊豆の温泉で過ごす。戦後の保守政権を担った吉田茂から池田勇人までの首相は、それが当たり前でした。例えば吉田は夏の夜、箱根の小涌谷に客を招き、明星ヶ岳に浮かび上がる「大文字焼き」や花火を一緒に鑑賞する。池田は熱海に名だたる経営者たちを招き、相模湾を望む和室で正月の茶会を開く。効率だけを考えれば、無駄な時間でしょう。でも、その「余白」が人をつくっていた面が確かにあると思うんです。

 それが、いつからか削ぎ落とされていきました。いまは寸暇を惜しんで働くことを、むしろ誇らしげに語る時代です。茶や温泉のような「余計なこと」をする余裕も、それを良しとする空気も乏しい。

 小林一三の才覚を今に生かすというのは、事業の手法をただ真似ることではないのかもしれません。どれほど空襲が激しくなっても、茶室にこもる時間を大切にする。そんな時間こそ、いまの私たちがいちばん失ってしまったものなのではないかと思います。

聞き手・矢部万紀子、写真・今村拓馬

シリーズ「知ってる? 甲州財閥―その才覚を今に生かす」全6回

  1. 東京の『当たり前』をつくった、独り勝ちしない人たち
  2. 無謀な賭けをせず、暮らしを変えた人たち
  3. 早川徳次の言葉は地下水のように
  4. 焼け跡を一人で歩いた小林一三
  5. 「雨敬」の豪快さは綿密さでできている(近日公開)
  6. 根津が遺した「自分で考える力」(近日公開)

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