「町の当たり前」もユニークな「ハレとケ」に 危機に瀕する祭りの口伝を次世代に残したい
消えゆく歴史と文化を残そうと、
山梨県は「山梨ふるさと記憶遺産プロジェクト」を始め、
2023年3月、2つの冊子が出来上がった。
その一つ、市川三郷町のテーマは「祭り」。
町の当たり前は外の世界からみると極めてユニークだった。
いつも“そこにある日常”に光が当たるまでのストーリーを追った。
※冒頭の写真は、表門神社の御幸祭で神輿が渡河する「芦川の川渡り」(山梨県提供)
目次
消えゆく語り部
山梨県の各地域には無名の先人たちが数多の困難を乗り越えて築きあげてきたストーリーがある。しかし、少子高齢化が進みコロナ禍による社会の変化が進む中、語り部は次第に姿を消し、口伝は歴史の中に埋もれてゆく。
このままでいいのかーー。2021年6月定例県議会で話題になった。
宮本秀憲県議 オンライン化が進み、図書館に行かなくてもスマホで様々な情報を入手できる時代になった。しかし、言い伝えとなっている地域独自の歴史、無形文化など(は形にして残さなければ途絶えてしまう。これら)を地域の図書館が主体となって保存すべきではないか。その図書館を訪れなければ知り得ないことがあれば、地域の図書館の付加価値を高めることになるのではないか。
長崎知事 県内各地に伝わる記憶を後世に引き継ぐことは極めて重要だ。地域固有の文化と歴史を記録・発信・継承する拠点の機能を地域図書館が担うということは、十分に検討に値する。
さらに知事は答弁を続けた。
「継承されるべき地域の文化と歴史は、正史としての郷土史にとどまらず、地域の多様な方々の体験やストーリーといった“ふるさとの記憶”を収集したものであればと考える」
この知事答弁をきっかけに、「山梨ふるさと記憶遺産プロジェクト」が2022年に始まった。目的は、「県内各地の歴史や文化、人々の体験、先人たちの記憶や物語などを記録・収集し、保存し活用していくため」だ。
プロジェクトを進めるため、生涯学習課は2022年の2月、県内市町村に向けてプロジェクトを説明し、「記憶遺産」への協力を求めた。すぐに市川三郷町が名乗り出て、プロジェクトは順調に始まるかに見えたのだがーー。
※記憶遺産プロジェクトについて詳しくはこちら
「祭りはどうでしょうか?」
2022年8月、市川三郷町生涯学習センターの会議室で、県庁職員と町職員ら8人の男女が頭を抱えていた。
記憶遺産プロジェクトで扱うべきテーマがどうにもしっくりこないからだった。というのも、当初町から出されたアイデアは、伝統産業の花火、印鑑、大塚人参。
どの案も産業に傾きがちで、知事が言う「地域の多様な方々の体験やストーリーといった“ふるさとの記憶”」と言えるだろうか……。
口数が少なくなった会議室で、生涯学習課の課長補佐である伊藤伸二さんが発言した。
「祭りはどうでしょうか?」
地元の旧市川大門町出身の伊藤さんはさらに続けた。
「市川三郷町にはたくさんの祭りがあります。それこそ口伝でしか残っていないものもあります。地元の人たちは知っていても、多くの県民は知らないのではないでしょうか」
祭りの中にはコロナ禍で中止になり、そのまま途絶えてしまいそうなものもあった。だから、いま「記憶遺産」として取り上げるのは、タイミングとしても悪くない。だが、市川三郷町立図書館の小林可苗さんは「自分の一存では決められない」と答えて、いったん町に持ち帰って検討することになった。
祭りが続く日常「ハレとケ」が一体となった市川三郷町
市川三郷町は笛吹川と釜無川が合流する甲府盆地の最南端にある。2005年に旧三珠町、旧市川大門町、旧六郷町、が対等合併して生まれたこの町は、伝統産業である市川大門の花火、六郷の印鑑、三珠の大塚人参で有名だ。印鑑は明治時代の水晶の加工技術から始まり、石が少なく柔らかな土地に育つ大塚人参は長さが1メートルにもなる。
伝統産業に恵まれた市川三郷町は、年間を通じて極めて多くの祭りが催される全国的にも珍しい地域でもあった。
民俗学者の柳田國男は日本人の伝統的な世界観として「ハレとケ」の概念を唱えた。非日常な祭りや儀礼、年中行事が「ハレ」で、日常の普段の生活が「ケ」。「晴れ着」はまさしく「ハレの日」のための衣装のことをいう。
そんな「ハレ」の祭りが市川三郷町では日常に溶け込んでいる。この町では、年間100日もの多様な祭りがあるという。年間365日、粗い計算で3.5日に1回は開かれ、週に2回はどこかで祭りがある。これだけ多くの祭りがあると、ハレとケの境界はあいまいになってくる。
「祭り」に決定、取材を開始
「町の当たり前」や「町民の記憶の中だけにある祭り」を取り上げることに町立図書館の小林さんらは一抹の不安を抱いていたが、「祭りの記録を文字として残すことは、今後しなければならないこと」(小林さん)と賛同した。こうして、テーマは「祭り」に決まった。
しかし、多くの祭りがあってすべてを取材することは現実的に難しい。どの祭りを本に書くか、誰に話を聞くべきか、は小林さんに託された。
「町の人の協力を得て、取材対象者を選びました。取材は11月の1日から11月の8日の間に短期間で行いました。1人ずつ聞いた方もいれば、3人集めて座談会というような形をとったときもあります。座談会形式だと、参加者の話が呼び水になってより幅広い話を聞けるのではないかと考えました」(小林さん)
取材を続ける中、すでに中止となっていた祭りもあった。また、言い伝えでしかなかった多くのことを発掘し、文字に記すことができた。
祭りに欠かせない花火も「ケ」
市川三郷町の名物、打ち上げ花火も祭りと密接なかかわりがある。
日本三大花火の1つに数えられる旧市川大門の花火は、祭りの山車に備えつけた火筒から豪快に花火が打ち上げられていたそうだ。小林さんはこう話す。
「山車から花火を打ち上げるなんて聞いたことがありません。しかし、大変残念ながらその山車は担い手不足などの理由で中断してしまいました。花火が吹き上がるそんな光景を一度は目にしたかったですね」
地域の先人たちが伝えてきた物語を残していきたい
小林さんが収集した「記憶遺産」は町立図書館に収蔵されている。消えようとしていた祭りは、形を変えて後世に伝えられることになった。
旧市川大門町出身の伊藤さんは故郷に想いを寄せた。
「高校まで過ごした私の故郷をあらためて訪ねてみると、にぎやかだった街並みはだいぶ寂しくなっていました。今回の『記憶遺産』のプロジェクトで取り上げた祭りを契機に、再び故郷が元気になってほしいと思いました」
小林さんも今回のプロジェクトを通じて“新たな気づき”があったという。
「町の人が当たり前と思っていることでも、異なる視点からみると当たり前ではないということを学びました。市川三郷町には後世に残すべき文化や遺産がまだまだたくさんあるのではないかと思いました」
冊子が収蔵される市川三郷町立図書館は、大きな窓に沿って閲覧席が並ぶ開放的な建物だ。手前には子ども向けの絵本コーナーや児童書コーナーが充実し、館内の奥に向かって開架式の書棚が整然と並んでいる。「本から広がる世界を知の拠点にする」という想いが伝わってくる図書館だ。そしてこの図書館は、過去の営みから続く人々の想いを継承する機能も追加された。
子どもの眼差しが忘れられない
この記憶遺産プロジェクトでは、市川三郷町のほかに甲州市の「ぶどうとワイン」も冊子になった。県生涯学習課の辻由樹さんが担当し、歴史を知るシニアの人たちに、子どもたちがインタビューするスタイルで冊子を編集した。
「子どもたちが熱心に話を聞く姿が印象的でした。熱中する子どもたちが目を見開いているときの眼差しは、いまも鮮烈です。話を聞かれているおじいちゃんも時間が経つにつれて、元気になっていくのがわかって、この取り組みで健康寿命が伸びるんじゃないかと思うほどでした」(辻さん)
冊子には、甲州市に移り住んで約30年が経った辻さんでも、まったく知らなかった歴史やエピソードが詰まっているという。
教育や観光にも記憶遺産を活用
この記憶遺産プロジェクトは、今年度も続く。
出来上がった冊子は、その地域の図書館に収蔵され、「文化と歴史の記録・発信・継承の拠点」となる。司書でもある県生涯学習課の佐久間絵梨さんはプロジェクトの今後について、こう語る。
「図書館にはいろいろな機能がありますが、地元の郷土資料を保存して活用してもらうようにすることも大事な機能です。その図書館に行かなければ見られない冊子を作ることで、図書館の魅力を高め、教育や観光にも利活用していきたいと考えています」
文・蜂巣稔