街道一の難所を越えて現代へ ~笹子追分の人形芝居~

街道一の難所を越えて響く三味線の音色。
江戸時代から笹子の地に伝わる義太夫節が、
今もなお人々の心を捉えている。
山梨県大月市笹子に残る「追分の人形芝居」。 
この伝統芸能は、どのようにして現代まで受け継がれてきたのだろうか。
伝統を守り、未来へ繋ぐ人々の想いに迫る。

説明文

 2025年度から、新コーナー「in depth プラス」を始めます。

 登場するのは、皆さんの身近で活躍するミライ思考の人たち。幅広い人たちにじっくり話を聞き、その息吹をお伝えします。

■この記事でわかること
✔「追分の人形芝居」は江戸時代から続く伝統的な人形芝居だ
✔ 一度は10年間の活動休止を経験したが、2004年の市制50周年記念式典をきっかけに復活した
✔ 現在は小学3年生から70代まで約40名の多世代メンバーで保存会が構成される
✔ 2025年5月にアメリカ・アイオワ州で国際公演を行い、文化交流を深めた 

■おすすめ記事
・「町の当たり前」もユニークな「ハレとケ」に 危機に瀕する祭りの口伝を次世代に残したい
・お待たせしました。今年はドカンドカン上がるぞ!甲州花火、25年ぶりの郷土伝統工芸品認定
・冨永愛さんが「真っ赤な信玄公」に 「初の女性起用」決定までの舞台裏

アメリカの舞台で響く義太夫節

 2025年5月、アメリカ・アイオワ州の高校体育館に、聞き慣れない旋律が響いていた。三味線の音色に合わせて語られる義太夫節。舞台では色鮮やかな衣装をまとった人形が、3人の人形遣いによって巧みに操られている。

「オーサイヤ オーサイヤ このところのよろこびは よそにはやらじとおもう」

 日本の伝統的な人形芝居を初めて目にするアメリカの高校生たちは、言葉は分からなくとも、人形の表情豊かな動きに見入っていた。1体5キロを超える人形を操る技術、義太夫節の響き、そして物語に込められた情感が、国境を越えて観客の心を捉えていく。

 舞台に立っているのは、江戸時代から笹子の地に伝わる「追分の人形芝居」の保存会メンバーたちだ。日本国内でも知る人の多くないこの伝統芸能が、なぜアメリカの舞台に立つことになったのだろうか。

江戸時代から続く庶民の文化

 追分の人形芝居の歴史は、江戸時代中頃まで遡る。淡路の人形遣いがこの地を訪れ、技術を伝えたことが始まりとされている。当時、人形浄瑠璃は庶民の娯楽として全国に広まっていたが、笹子の地ではそれが単なる娯楽を超えた意味を持っていた。

 笹子峠は標高1,096メートル、国学者の黒川春村が「街道一の難所」と記したほどの険しい峠道だった。甲州街道を行き交う旅人にとって、この峠越えは命がけの道行きだ。そうした難所を通行する旅人をもてなすため、地元の人々が人形芝居を演じたと伝えられている。

 峠の茶屋で、あるいは宿場で、人形たちが織りなす物語は、旅人の心に温かな灯りを点していたのだろう。

 かつて、山梨県内には数多くの人形座が存在していた。しかし明治時代以降、近代化の波とともに多くの座が姿を消していく。娯楽の多様化、生活様式の変化、そして担い手の減少。伝統芸能にとって厳しい時代が続いた。

 そうした中で、追分の人形芝居は地域の人々の手によって守り続けられてきた。1960(昭和35)年11月7日、山梨県指定無形文化財としての指定を受ける。その後の条例改正に伴い、現在は無形民俗文化財として位置づけられている。

追分人形芝居の稽古場

存続の危機と復活

 長い歴史を誇る追分の人形芝居にも、存続の危機が訪れた。1994年の公演を最後に、10年間にわたって活動が休止されることになる。活動休止の原因は、座員の高齢化だ。

「人形芝居は1体の人形を、主遣い・足遣い・左遣いという3人の人形遣いが操る『三人遣い』という技法で演じます。人形は一体が5キロから8キロ。この重い人形を1時間近くにわたって操り続けるには、かなりの体力が必要です。高齢化が進む中で、人材の確保が困難になっていきました」と、笹子追分人形芝居保存会 会長の天野茂仁さんは語る。

 転機となったのは、2004年の大月市制50周年記念式典だ。この記念式典で、追分の人形芝居は10分間だけの短い公演を行った。保存してある人形や舞台道具をすべて展示し、久しぶりに人形が舞台で躍動する姿を披露したのだ。

笹子追分人形芝居保存会 会長の天野茂仁さん

「実際の公演は10分間だけでしたが、その公演が翌年から現在のメンバーで活動を再開する大きなきっかけとなりました」(天野会長)

 たった10分間の公演だったが、その意味は計り知れなかった。観客席には、かつてこの芸能を愛した人々、そして初めて目にする若い世代の姿があった。義太夫節の響き、人形の巧みな動き、そして演者たちの想いが会場を包んだ。

 式典で公演を見た人々が、翌年から新たなメンバーとして集まってきた。今の座員たちが加わったのは、2004年の市制50周年記念公演の翌年からだ。それまでの座員は皆古参のメンバーだったが、復活を願う新しい力が結集した。

 2005年、天野茂仁さんを会長とする新しい体制で、保存と継承を目的とした活動が本格的に始まった。

アメリカ公演への挑戦

 復活から20年が経った2025年、追分の人形芝居に思いもよらない機会が舞い込んだ。アメリカ・アイオワ州からの招待だった。

「アメリカのアイオワにある日米協会から、ぜひということでご招待を受けました」(天野会長)

 この招待には、歴史的な背景があった。アイオワ州と山梨県の関係は戦後復興期まで遡る。昭和20年代、山梨県が水害などの災害に見舞われた際、アイオワ州の人々が支援金を送って支援してくれた。その恩に報いるため、当時の天野久知事が「平和と友情の鐘」を贈り、アイオワ州が大洪水に襲われた際には、山梨県民からの義援金を送るなどの人道的援助を行い、両地域の友好関係が築かれたのだという。

「アイオワは山梨県の姉妹都市で、山梨ベーコンフェスティバルなどで山梨県を訪れる機会があります。その際、日米協会のアメリカ人スタッフが人形芝居の存在を知り、公演のオファーをいただいたのです」(天野会長) 

 アイオワ州デモイン市で開催されるアジアフェスティバルで、日本代表として伝統芸能をアピールしてほしいという依頼だった。山梨県内で数少なく残る人形芝居として、文化交流を担うことになった。

 公演に向けた準備は入念に行われた。演目は「寿三番叟」「団子売り」「さくらさくら」「夕焼け小焼け」の4つを選定。言葉の壁を考慮し、踊りがメインの演目を中心とした構成とした。

 2025年5月、保存会から選ばれた9名のメンバーが12日間のアメリカツアーに出発した。小学生を含む多世代のチームは、仕事や学校を休んでの参加。アメリカでの公演は、予想以上にハードなスケジュールだった。

「アメリカは広いので、とにかく移動が大変でした。公演がほぼ毎日あり、今日はここ、明日はここ、という感じでした」(座員の條々倫永子さん)

座員の條々倫永子さん(左から2番目)

 小学校、高校、大学と様々な会場で公演を重ねた。会場に応じて演目を調整し、小学校では簡単な「さくらさくら」を、高校では時間の制約で「さくらさくら」と「寿三番叟」を演じ、最後の本公演では4演目すべてを披露した。

 観客の反応は期待を上回るものだった。

「大好評でした。アメリカの方は日本の文化、特に伝統芸能に対する関心が非常に高いのだと感じました」(條々さん)

 特に印象深かったのは、高校での公演後の出来事だ。

「年配のご夫婦が来てくださり、『子供の頃から日本にこういうお芝居があることは知っていたが、日本に行っても見ることができなかった。60年越しにアメリカで見ることができてとても感激している』と直接言葉をかけてくださいました」(條々さん)

 この言葉は、メンバーたちにとって何よりの励みとなった。言葉の壁を越えて、人形芝居の持つ普遍的な魅力が伝わったのだ。

 公演を見た現地の高校生の中には、日本への留学を予定している学生もおり、再会を約束する場面もあった。文化交流の輪が広がっていく手応えを感じる瞬間だった。

地域との絆、技術の承継

 地域との関わりは公演だけにとどまらない。JR大月駅とのコラボレーションで実施される座敷列車のおもてなし公演も、観光と文化が融合したユニークな取り組みだ。

 演目を演じるのではなく、人形を使って「いらっしゃいませ」とご挨拶をする形での参加だが、訪れる観光客、特に外国からの観光客には大変喜ばれている。

「一緒に写真を撮る方も多いです」(天野会長)

 そして、今年も10月19日に、保存会にとって最も重要な舞台の一つである大月市文化祭での公演が開かれる。

「普段の公演では、録音された浄瑠璃を流していますが、大月市の文化祭公演だけは生の浄瑠璃を披露しており、それを楽しみに来てくださる方も多いようです」(天野会長)

 市民会館の大きな舞台で響く義太夫節と、それに合わせて舞う人形たちの姿は、観客にとって年に一度の特別な体験となっている。

 大月市文化祭に向けた稽古が始まった7月12日、笹子の稽古場には特別な指導者の姿が見えた。東京・八王子から足を運んでくれたのは、国指定文化財「八王子車人形西川古柳座」の五代目家元、西川古柳さんだ。

「女人形の帯締めは、こう」「男人形の力強い棒足の動きは……」

稽古をつける西川古柳さん(右)

広がる継承の輪

 師匠の指導のもと、メンバーたちは一つひとつの型を確認していく。保存会の現在の構成員は40名ほど。そのうち実際に人形を操っているのは半数の20名程度で、残りのメンバーは着物や小道具を作るなど、裏方として支えている。最年少のメンバーは、この日の稽古にも参加していた、初狩小学校3年生の小野璃愛那さん。祖父が保存会事務局を務めている璃愛那さんは、人形をおもちゃのようにして育ち、3歳で初舞台を踏んだ”ベテラン”だ。

最年少のメンバーの小野璃愛那さん

 上は70代まで、真の意味での多世代による活動が実現している。

 天野会長は、若い世代への指導で心がけていることをこう語る。

「まず、人形に触れてもらい、実際の重さを体験してもらうことから始めて、興味を持ってもらいます。実際にやってみると、みんな『面白い』『楽しい』と言ってくれます」

 無理強いはせず、まず人形芝居の楽しさや魅力を理解してもらうことから始める。公演がある時には見に来てもらい、実際の舞台を体験してから参加を促している。

 次世代継承への取り組みは多岐にわたる。大月市の放課後子供教室では、夏休みなどを利用して人形芝居を紹介している。かつては笹子小学校で総合学習として人形の頭作りから人形芝居まで本格的に学ぶプログラムがあったが、学校統合により失われてしまった。

 しかし新たな取り組みも生まれている。自然学園高等学校では部活動として人形芝居に取り組んでおり、保存会のメンバーが定期的に指導に通っている。

 以前は女性の人形遣いはほとんどおらず、裏方がメインだったが、現在は高校生も含めて女性の人形遣いが6人いる。男女を問わず、また年齢を問わず、人形芝居に関わる人の輪が広がっている。

「地元に残る唯一の人形芝居なので、座員たちは次の世代に繋げていこうと、意欲的に取り組んでくれています。現在では、年に10回くらい公演活動を行っています。呼ばれればどこでも行くという感じです」(天野会長)

西川師匠を囲む保存会メンバーのみなさん。左端が座長の天野新一さん

 保存会には市外からの新メンバーも加わり、活動の輪が広がっている。

「やはり、見てくれる人がいる限りは続けたいと思っています」(天野会長)

文・稲田和瑛、写真・今村拓馬

関連記事一覧