
富士山頂を目指さず、生きもの図鑑を歩く
富士山を登るより、下るほうが面白さを感じられるという。
山頂を目指さず、五合目から横へ、下へ。
富士山ネイチャーツアーズ代表の岩崎仁さんは、これを「富士下山」と呼ぶ。
富士スバルライン五合目から上は、森が育たなくなる「森林限界」。
登頂を目指す大勢の人に背を向けて、歩いてみた。
目の前には、「天然の生きもの図鑑」が広がっていた。
古くから、富士山には単なる登山の対象ではなく、信仰の対象として捉えられてきた歴史がある。山梨県は近年、吉田口登山道をはじめとする歴史ある登山道や、五合目より下に残る信仰の道に着目している。登頂するだけではなく、富士山全体が持つ価値に改めて光を当てるのが狙いだ。
今回紹介する「富士下山」は、その一つの方法でもある。
※詳しくは「ふれあいマンスリーvol.7」へ
目次
最初に現れたのは、5gの鳥だった
五合目バス乗り場の脇に、目立たない石段がある。知らなければ通り過ぎてしまう。一段下りると、土産物店のざわめきが遠のいた。

ここが「お中道」の入り口だ。標高2,400m付近をぐるりと一周する道で、今は一周できないが、五合目から奥庭(おくにわ)まで2〜3時間で歩ける。高低差がほとんどないので、小学生から年配の方まで楽しめる。
岩崎さんに続いて木立に入ると、「ツィツィツィ」と鳴き声が聞こえてきた。「キクイタダキです。体重はたった5gで、日本でいちばん小さな鳥です」※。街でよく見るスズメは20〜25g。いかに小さいかがわかる。
※以下、カギカッコ内は、岩崎さんの言葉です
空気がきれいな証拠
岩や木の幹を覆っている緑色のものは苔? 「違います。地衣類という生きものです。藻類と菌類が合体したもので、空気が汚れていると生きられないんです」。

岩崎さんによると、地衣類が1cm四方に広がるのに何十年もかかるという。だから、これだけ茂っているというのは……。「この場所に長く、きれいな空気が続いてきたということです」。自分で栄養をつくれるから、土のない裸の溶岩の上でも生きられる。
苔は「命のゆりかご」
地面や木の根元に、ふかふかと厚みのある緑が見える。こちらが苔だという。

富士山の斜面には、流れる川が一本もない。やせた火山の大地で、苔が大事な役割を果たしている。雨は葉が受け止め、枝から幹を伝う。チリや虫の死骸を洗い流し、根元に届くころには栄養たっぷりの水に。その水を、苔がスポンジ役となって地表にため込む。
「針葉樹の種は、すごく小さい。土に埋もれると芽を出せませんが、苔の上に落ちれば、水と栄養をもらって発芽できる。苔は、いわば命のゆりかごなんです」
木にも、血小板がある
歩き進めると、幹にこぶのような膨らみのある木が見えた。「シラビソです。富士山五合目によく見られる木で、このこぶのなかに樹液がたまっているんです」。こぶを爪で押すと、柑橘系の香りがする樹液(ヤニ)がにじみ出てきた。

冬にはマイナス20度近くまで冷える。幹の水分が凍ると、木が縦に割れる(凍裂)。
凍裂したとき、シラビソはためておいた樹液を割れ目に流し込む。「かさぶたみたいに傷を塞ぐんです。人間でいう、血小板みたいなものですね」。
足元には小さな白い花。コケモモだ。「静岡の試験場で栽培しても、まったく実がつかないのに、こんな過酷な場所で、ちゃんと実るんです」。
森には不思議があふれている。
なぜ、みんな谷側に曲がっているのか
ふと、根元から谷側へそろって曲がった木の群れがあった。原因は雪だという。冬に2〜3m積もった雪は、春になると斜面をゆっくり滑り落ちる。その圧力を毎年受けるため、木はまっすぐ伸びることができない。

「ダケカンバは曲がりながらでも生き延びられる。だからダケカンバばかり元気な場所は、雪崩が起きやすい場所でもあるんです」
道の脇には砂防施設が並び、その先に木々のまばらな斜面が広がっていた。雪崩が森をのみ込んだ跡だという。それでも、細く若い木が、また少しずつ育ちはじめている。
はじめは赤い
足元の土は、次第に黒い火山礫まじりになった。一歩ごとに小さく崩れる。それでも傾斜はほとんどなく、息は上がらない。
岩崎さんが、赤っぽい若葉を一枚つまんだ。「この赤、ブルーベリーと同じアントシアニンっていう成分です。どうして赤いと思います? 紫外線対策なんです」。

葉の緑(葉緑素)は光合成の要だが、強い紫外線に弱い。そこで若い葉は、赤いアントシアニンで表面をおおい、葉緑素を守る。「葉が育って丈夫になると、赤が抜けて、緑になる。今度は光合成の効率を上げていくんです」。
目を上げると、今度は足元に白い花(フジハタザオ)が咲いていた。白は春の紫外線を反射し、紫外線が見える虫に見つけてもらいやすくなる。「受粉のためです。季節が変われば咲く花の色も変わります」

さらに歩くと、葉がくるりと筒のように丸まった茂みが目に留まった。ハクサンシャクナゲだ。冬も葉を落とさず、表面積を小さくすることで凍結や乾燥から身を守っている。
森は、いまも登っている
「富士山は日本一高い山なのに、高山植物が少ない。ほかの高い山の高山植物は氷河期の生き残り。でも、富士山ができたのは氷河期が終わるころ。遅すぎて、定着できなかったんです」
だから富士山の植物の多くは、ふもとから姿を変えながら適応してきた。そして今も、森は上へ上へと登り続けている。
その動きを支えているのが、足元の草だ。岩崎さんが、小石がゴロゴロした地面に低く張りついた草を指さした。オンタデとイタドリ。近くでは石が崩れ、えぐれた土から根がむき出しになっていた。

草丈に対して、根は不釣り合いに太く、長い。この根が石の流れをせき止め、周りに少しずつ土をためていく。そこにカラマツの種が落ちて根づく。「静岡側に、明治時代に撮られた三合目の山小屋跡の写真があります。映っているのはただの岩山。でも今は、鬱蒼とした森になっています」。森は確実に、少しずつ標高を上げている。
ただ、上へ行くほど、生き延びるのは難しい。かつて富士山の山頂に、一度だけ木が生えたことがあるという。「ミヤマヤナギは綿毛で種を飛ばす木で、たまたま山頂まで届いて根づきましたが、翌年には枯れた。でも、植物はそんな挑戦と失敗を繰り返しながら、生息域を広げていくんです」。
右手は森、左手は溶岩
お中道も終盤。木々がひらけ、遠くまで見わたせる場所に出た。右手は森、左手は溶岩の丘。約2,000年前の噴火の跡だという。

富士山は火山としての歴史は浅く、今も成長を続ける「若い山」だ。
岩崎さんが「いちばん好きな場所」だという展望地に立つ。涼しい風が吹いた。目の前には、富士山の裾野がどこまでもゆるやかに広がっていた。

「山に登るのが、そんなに好きじゃない」
岩崎さんは、あえて山頂を目指さないツアーを続けている。
「実は、山に登るのがそんなに好きじゃないんです。山に来るのは自然を見るため。花や鳥を見られたら、それでもう満足。だから山頂まで行かずに帰ることもあります」

その視点は、いまの富士山が抱える問題ともつながっている。
「夏の富士山は、五合目より上に人が集中してしまいます。だからこそ、下にもこんな魅力があることを知ってもらえれば、人の流れも少し変わるんじゃないかと思ったんです」
装備も気合もいらない
取材したのは6月の終わり。ちょうど遠足シーズンで、この日も中学生の集団が元気に追い抜いていった。「東海地方の学生さんが、よく来るんですよ。みんな『こんにちは!』って挨拶してくれてね」。
岩崎さんの富士下山ツアーの参加者は、少しずつ増えている。いまは年間1,200人ほど。なかには、富士登山はやめて、下山だけを目当てに来る人もいるという。
「派手なものは何もないんですけどね。でも、ちゃんと見ると、中身はこれだけ濃いんです」

【お中道散策マップ】
| インフォメーション お中道の入り口は、富士スバルライン五合目バス乗り場がある富士急雲上閣の脇の階段。五合目まではマイカー規制が実施されているため、富士スバルラインを運行する路線バスなどを利用するのがオススメ。お中道をゆっくり歩き、御庭(奥庭)バス停から路線バスで戻れば、一日たっぷり楽しめます。山頂を目指す登山には4,000円の通行料が必要ですが、お中道の散策やゲートの外での五合目観光には通行料はかかりません。標高約2,400メートルと夏でも涼しいため、長袖を着用し、雨が予想される場合は傘ではなくレインウェアを用意すると安心です。 |
| 自由研究のヒント お中道は、豊かな自然だけでなく、富士山信仰の道としても知られています。富士山信仰の歴史を調べたり、厳しい環境を生き抜く植物の工夫を観察したり、火山としての富士山の成り立ちや地形の特徴を調べたりするのもおすすめです。観察するときは、植物や石などを採取せず、写真やスケッチで記録を残しながら楽しみましょう。 |
文・中島魁人、写真・今村拓馬


