
賃金を上げると何が起きる? 徳島県の事例から見るその実態連載:豊かさ共創スリーアップ vol.4
スキル・収益・賃金の向上を目指す「豊かさ共創スリーアップ」。
そのうち賃金の引き上げは、経営者にとって大きな課題だ。
最低賃金を大きく引き上げたとき、現場で何が起きるのか。
逆に、賃金が伸び悩むとどんなリスクがあるのか。
最近、大幅に最低賃金が上がった徳島県の事例を取材し、その実態に迫った。
やまなしin depthでは、「県政フカボリ!」の新コーナーを始めます。
県が力を入れる重点施策をピックアップし、連載形式でその背景や課題、展望を県民の皆さまにお伝えしていきます。連載第二弾は「豊かさ共創スリーアップ」です。
■この記事でわかること
✔ 各企業が取り組んでいる人件費上昇への対応策
✔ 賃上げ実現を後押しした行政の支援策とその効果
✔ 山梨県との共通課題とそのアプローチ
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目次
「徳島ショック」と呼ばれた84円の衝撃
2024年夏、最低賃金の改定額が47都道府県で出揃うと、「徳島ショック」といわれる衝撃が全国に広がった。
中央最低賃金審議会が示した引き上げ幅の目安は、全国一律で50円。ところが、徳島県が発表したのは異例の84円だった。目安に1〜9円を上乗せした県はほかにもあったが、34円もの大幅な上乗せを敢行したのは同県だけだ。
「84円と聞いたときは、そらもう『冗談でしょ?』みたいな感じでした」
そう苦笑するのは、徳島県中小企業団体中央会の会長を務める、冨士ファニチアの布川徹取締役会長。最低賃金という“下限”の底上げは、会社全体の賃金体系を動かし、人件費の増加に波及する。経営者からすれば、頭を抱えたくなる話だ。
それでも布川さんは決定を受け入れ、引き上げの対応を急ぐことにした。

「84円は想定以上の幅でしたが、もともと上がるだろうという覚悟はありました。今の時代、向き合わないわけにはいかないですよ」
背景にあったのは、若い世代を中心に進む人材流出への危機感。加えて、国際競争の中で戦っていくために、賃上げは避けて通れない、という認識があった。また、最低賃金の引き上げに合わせて用意された行政の支援策も、布川さんをはじめ多くの経営者が賃上げに踏み切る後押しになったという。
山梨にも通じる「隣接県との格差」と人材流出
徳島県が抱える課題の中には、山梨県の状況とも重なる部分がある。
山梨県は、東京都や神奈川県と県境を接している。中央線で数駅動くだけで、時給の水準が大きく変わる──そうした隣接県との賃金格差が、若い人を中心に県外への就業を促す要因の一つと指摘されている。
その傾向が顕著なのが、県最東端の上野原市だ。電車に乗れば約20分ほどで東京都内という立地が、都市部への通勤や転職を現実的な選択肢にしている。消防職をはじめとする市職員や、民間で働く介護職員などが、数年でスキルを身に付けたあとに「八王子に行きます」「立川に行きます」と転職していく例が後を絶たない。例えば、在職中に取得した大型自動車免許などの資格を武器に、転職を成功させるといった具合だ。
一方の徳島県も、2023年に最低賃金が全国ワースト2位まで落ち込み、大阪圏への人材流出が問題視されてきた。大都市圏との賃金・雇用の魅力差が、人と企業の選択を左右している構造は、両県に共通するもの。だからこそ、徳島県が最低賃金を大胆に引き上げた経緯と、その後の企業・行政の動きには、山梨県がこれから議論を深めるうえでのヒントが多く含まれていると言えそうだ。
データが示した「ワースト2位」とは一致しないポテンシャル
最低賃金をどれだけ上げるか。徳島県では、国の目安だけに頼らず、データに基づく議論が重ねられた。
もともと2023年、物価高を背景に賃上げの機運が全国的に高まる中、徳島県は最低賃金を41円上げたものの、全国順位ではワースト2位まで落ち込むこととなった。
一方で、県の経済指標を見ると、1人当たりの県民所得は全国9位、県内総生産は全国13位、労働生産性は全国7位と、いずれも上位に位置していた。県労働雇用政策課の井口貴弘課長は、労働者の生計費、賃金、事業の賃金支払能力などを総合すると「全国的に見てデータでは中位より上に位置する。つまり県が持つポテンシャルは、全国ワースト2位という最低賃金に見合っていなかったんです」と説明する。
徳島県経営者協会専務理事の脇田亮さん(最低賃金審議会委員)は「一口に経営者と言っても、企業の規模も経営状況も様々です。引き上げ幅を『大きい』と見るか『小さい』と見るかは、どこに軸足を置くかで変わる」と振り返る。だからこそ県内の中小企業の実態を映すデータが重要で、「国の目安に頼るだけでは判断材料として足りない」という考え方につながったのだ。
そうした議論の帰結が、2024年度のプラス84円だった。翌2025年度も引き上げが続き、2年で合計150円という、ほかに類を見ない大幅な引き上げが実現した。

現場で何が起きたか。抜本的改革と「苦しみの先」
「もし引き上げ幅が小さければ、現状維持しながら多少の調整で済ませたかもしれない。しかし予想以上に大幅だったので、抜本的な改革を迫られました」
そう布川さんが語るように、冨士ファニチアでは、主に価格転嫁と生産性向上の二本柱で人件費の上昇に対応した。同時に、効率の悪い営業所の閉鎖、条件の悪い取引先との関係の見直し、手間の割に見合わない仕事の整理など、“経営の選択と集中”を進めることとなった。補助金・助成金も積極的に活用しながら、DXや設備投資にも踏み切っている。
布川さんは、ここ数年の改革を通じて、父からの教えである「幸せは苦しみの彼方にこそあれ。人も企業も苦しむことによってのみ成長する」という言葉の意味を、身をもって感じたという。賃上げの痛みは、企業の体質を変えるきっかけにもなった、というわけだ。
各企業が工夫と努力を重ねた結果、徳島県の実質賃金は、2024年8月から2025年6月までの11か月連続でプラスを維持。その後はマイナスに転じる時期もあり、企業倒産件数も全国的な傾向と同様に増加傾向にあるため、今後の動向を注視する必要はある。また、業種や事業規模によって賃上げの負担の感じ方は異なり、飲食・小売など価格転嫁が難しい分野を中心に、厳しい声も上がったという。それでも、全体として倒産が雪崩をうって増える、という事態には至らなかった。
「出前相談」の文化──支援は「載せる」だけでは届かない
賃上げに取り組む企業を支えたのは、行政の支援と、それを現場に届ける仕組みだった。
徳島県では、約30年前から「出前相談」と呼ばれる取り組みが続いている。春と秋の年2回、各100件ほど県職員が企業を直接訪ね、現場の実態を把握する活動だ。脇田さんは「経営の本音を、民間同士では言えなくても県の職員には打ち明けやすい場合がある」と説明する。そうした現場の生の声が、支援策を設計する上でも大きな材料になったそうだ。
また、徳島県庁の井口さんは「支援策をホームページに載せたり団体に通知したりするだけでは、県民のところまで届かない」と語る。例えば士業や銀行にも支援策の内容を説明し、そこから周囲の企業へ広めてもらうなど、周知にもさまざまな工夫を凝らした。
その結果、2024年度の業務改善助成金(中小企業等が賃金引き上げと業務効率化を目的とした設備投資をした場合に国が一部を助成する制度)の執行件数伸び率は前年比156.2%で全国1位を記録。国の助成金への県独自の上乗せや、申請費用の支援など、細やかな制度設計が現場での活用を後押しした形だ。
ただちにヒアリングへ!
山梨県でも、長崎幸太郎県知事は最低賃金を賃金水準全体を引き上げる「最初の歯車」と位置づけ、審議会に引き上げの重要性を訴えている。
そんな山梨県が、大幅アップに成功した徳島県の動きを見逃すはずがない。
「なぜ可能だったのか」「影響はなかったのか」。
ただちに、山梨県職員が徳島へと派遣された。
2025年12月、徳島県庁からヒアリングしたのは、県働く人・働き方支援課の課長奈良知也さんと課長補佐の長田直樹さんだ。
奈良さんは「事前の想定と異なり、企業の反発はそれほどでもなく、地域経済に与える影響もマイナスよりはプラスという話に驚かされました」と振り返る。
徳島県の後藤田正純知事と対話した若者が、最低賃金アップを歓迎したエピソードや、外国人材の定着につながっていることも聞くことができた。

さらに参考になったのは、「支援を充実しても、小規模事業者はなかなかそれを使いきれない」という課題だった。
先行事例だった徳島県の課題も参考に、賃上げを決める経営者のニーズにきめ細やかに対応する支援メニューを山梨県として組み上げることができた。
例えば、「補助金申請に必要な書類の準備が難しい」という現場の声を踏まえ、行政書士などの活用を支援する仕組みなど、小規模事業者に寄り添った支援策を新たに予算に計上した。
賃上げを現実のものとするために
賃上げに挑むことは簡単ではない。それでも、人材流出や物価高の中での生活苦に向き合うなら、避けては通れない論点となる。
徳島県の先行事例が示しているのは、国の目安にとらわれず、地域のデータと対話に根ざした議論を重ねること、そして企業の経営努力と行政の支援を組み合わせることが、賃金を引き上げるために欠かせない条件になるということだ。
若い世代から「ここで働きたい」と“選ばれる企業”になるには、賃金だけでなく働き方や職場環境など、さまざまな魅力を磨いていく必要があるだろう。それでも、賃金は選ばれるための重要な要素の一つ。最低賃金の引き上げは、賃金体系の見直しや、働き手と経営者の双方の納得感を生むきっかけになり得る。
行政・働く人・経営者が同じ目標に向かい、それぞれの立場で力を発揮し合う──。そのとき、スキルアップ、収益アップ、賃金アップという「豊かさ共創スリーアップ」の歯車が、かみ合いながら回り始める。
*肩書などは取材時のものです。
文・中村麻衣子、イラスト・石山好宏


