
64円の最低賃金アップだけでは解決しない、若者流出を食い止める本当の賃金戦略とは?
(連載:豊かさ共創スリーアップ vol.2)
「大いに不満ですね。全く満足できる水準ではない」
長崎幸太郎知事が最低賃金引き上げの結果について語った言葉に、
山梨県の深刻な現実が浮かび上がる。
今年12月から、時給1052円へと引き上げられる最低賃金。
64円の増額は過去最大だが、依然として隣接する都県の水準には届かない。
この賃金格差が、若者を中心とした人材流出を加速させ、
地域の未来に影を落としていると長崎知事は警鐘を鳴らす。
そんな中、現状を打破しようと動き出した企業もある。
物価高騰が続く昨今、従業員の生活の質向上と優秀な人材確保を目指し、
組織改革や新たな賃金戦略に挑戦し始めたのだ。
やまなしin depthでは、「県政フカボリ!」の新コーナーを始めます。
県が力を入れる重点施策をピックアップし、連載形式でその背景や課題、展望を県民の皆さまにお伝えしていきます。連載第二弾は「豊かさ共創スリーアップ」です。
■この記事でわかること
✔ 賃金格差が若者流出を招く現実とその対策
✔「スキルアップ→売上アップ→賃金アップ」の好循環を実現する企業の具体例
✔ 県の支援制度を活用した持続可能な賃上げ戦略
✔ 従業員と企業が共に成長する組織改革のヒント
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次世代のため、休日を増やし給料も上げる
創業から半世紀以上の歴史を誇る株式会社山十産業(南アルプス市)は、賃金引き上げに積極的に取り組む企業の一つだ。
従業員はスキルアップに取り組み、自身の成長を企業の業績向上に結びつける。さらにその成果を、賃金の引き上げという形でどう従業員へと還元していくのか。実際に変革に踏み出した山十産業のケースから、そのヒントを探ってみたい。
1965年の創業以来、砕石製造技術を基盤としつつ、コンベヤ搬送設備の設計・製造など幅広い事業を展開してきた。同社は今年4月、大胆な組織改編を実施し、新たに“役職手当”の制度を導入した。
専務取締役の根本康文さんは「業績が伸びている今こそ、時代の流れに合わせて次世代のことを考えるべきタイミングだと感じました。休日を増やし、給与も引き上げる。次の世代のための組織を作ろうという思いで、思い切って組織改編に踏み切りました」と語る。
従来は「年功序列で、ゆっくりでも確実に賃金が上がる」スタイルだったが、4月からは役職手当のつくマネージャー職を新設。年功序列型から、やる気や技術、責任に応じて社員を評価する能力評価型へと転換した。これにより、社員一人ひとりの能力開発が促され、特に若手社員の賃金引き上げにつながっている。

同社が以前から抱えていた課題は、社内教育体制の未整備だった。根本専務は「中小企業にはよくあることかもしれませんが、しっかりとした社内教育の仕組みがなかった。現場で働きながら、職人同士の口伝のような形で学びが伝わるだけで、基礎から応用まで体系的に学ぶ場がありませんでした」と振り返る。
そこで山十産業が活用したのが、山梨県が主催する「やまなしキャリアアップ・ユニバーシティ(CUU)」の講座だ。経営マネジメント講座やDX講座、コミュニケーション講座など、業務に役立ちそうなプログラムの受講を社員に勧め、初年度の2023年度から毎年5人前後が受講している。
「CUUの講座は社員のスキルアップのみならず、その先の業績向上や賃金アップまでを見据えている点が大きな特徴だと思います。そのため内容も、より実践的で濃密です」と、自身もCUUの講座を受講した経験がある根本専務は絶賛する。CUUなどを活用しながら課題だった社内教育を強化し、個々の能力開発を後押しする組織改編へと踏み切ることができたのだ。
従業員からもCUUの講座は好評だ。3つの講座を受講した社員は「たとえばDXの講座では、業務改善を目指す中で生成AIに触れる機会も結構ありました。2年前の講座でChatGPTを初めて触って、それ以来、生成AIに対するとっつきづらさがなくなったので良かったです」と話す。
CUUの中でも人気があるDX講座は、受講者がそれぞれ自社にDXをどう取り入れるかについてグループワークなどを通じて考えを深める。講座の学びが業務の効率化や売上向上につながれば、それはそのまま企業の持続的な賃上げを後押しする重要な要素となる。
休日増加、働きやすさが向上
山十産業では、社員教育に力を入れるだけでなく、働きやすさを重視して休日の増加に踏み切った。「働き方改革が求められる今、しっかり休める環境を整えることが、社員の定着や新たな人材の確保につながると考えています」と根本専務。
事前に社員へ丁寧に説明し、稼働日に業務に集中してもらうことで、生産性は大きく変わっていないという。現場からは「休みが増えて家族と過ごす時間ができた」「リフレッシュして仕事に取り組めるようになった」など、働きやすさの向上を実感する声が多く寄せられている。
もちろん、こうした能力評価型への転換や休日の増加といった改革は、十分な準備や下地があってこそ実現できたものだ。持続可能な賃金アップを目指すには、生産性の向上やコスト削減など、収益拡大を同時に進めることが欠かせない。
山十産業ではその一つの取り組みとして、県の補助金を活用して初期費用を抑えつつ、設備投資を積極的に進めている。また、組織改編にあたって社員への丁寧な説明を徹底し、経営層から現場まで一体となって変革を推進しているそうだ。

根本専務は「当たり前の話ですが、一部の人間だけが『変わろう』と考えていても、変化のスピードは遅くなります。全員がしっかり腑に落ちて変化していけるように、組織改編の良い面も悪い面も説明した上で、みんなに納得してもらって進めることが重要です」と語る。
長期的な目線で「社員と一緒に作る」評価基準
賃金引き上げに積極的な企業の中でも、まさに現在進行形で人事評価制度の改革に取り組んでいるのが株式会社馬場設計だ。1963年創業の同社は、建築設計だけでなく、工事監理、企画、コンサルティング、リノベーション設計など多岐にわたる事業を展開している。髙相正樹代表取締役副社長は「まだ始まったばかりで試行期間中」としながらも、人事評価基準の大幅な見直しに乗り出したという。その背景はこうだ。
「今は物価上昇による生活の負担や将来への不安が大きい時代です。そうした中で、個人の頑張りや売上への貢献がきちんと賃金に反映されていると、社員が実感できることが大切だと考えました。努力を正当に評価できる仕組みを作りたいと思ったのです」

より公平な評価基準を設けるため、東京の企業で人事評価制度を経験したUターン社員を採用し、その知見を生かしている。現在は試行期間を設け、社員全員が納得できる評価基準の構築に取り組んでいる最中だ。
「20年後、30年後に役員が入れ替わっても評価基準がぶれないよう、ある程度客観的な仕組みが必要だと考えています。もし経営層だけで基準を決めてしまったら、社員も納得できないでしょうし、その気持ちは私自身もよく分かります。だからこそ、社員と一緒に基準を作り上げていくことが大切です」と髙相副社長は説明する。
評価基準の刷新によって、社員の学ぶ意欲も高まっている。その際、山十産業同様、馬場設計でも有効活用しているのがCUUの講座だ。同社の場合、まずは役員クラスが経営マネジメント講座などを受講。学びの質の高さを身をもって確認した上で、現場の社員にも受講を勧めており、実際、多くの社員が積極的に講座に参加しているという。
直面する現実問題と変化を恐れない企業が描く未来
山十産業や馬場設計のように、賃金引き上げに積極的に取り組む企業の背景にあるのは、若者の県外流出や人材不足への強い危機感だ。若い世代は企業をシビアな目で見ており、賃金が他社より低ければ、それだけで人材が流出してしまう現実がある。
山十産業の根本専務も、人材確保の難しさを痛感している。「業績自体は好調なのですが、最大の課題は新しい人材の発掘、育成です。業界全体として求人が弱い傾向にはあるのですが、特にここ数年は採用活動に力を入れているものの、これまでにないほど応募が集まりにくくなっています」と明かす。
そもそも若年層の人口減少が進み、人材の奪い合いが激化していることも大きな要因だ。根本専務は「業界全体をピラミッドに例えると、上に大手企業、真ん中に中小企業、下に零細企業がある。しかし人口減少と労働力不足でこのバランスが崩れ、限られた人材が大手に集中し、中小や零細企業まで十分に人が行き渡らない状況です」と指摘する。
このような採用競争の激化を受け、賃金の引き上げは優秀な人材を確保するための重要な施策となっている。賃上げは若者の県外流出を防ぐだけでなく、物価高騰の中で働く人々の生活の質を高め、地域の持続的な発展を目指す上でも不可欠な道筋だ。つまりは、地域の未来を担う若者を引き留め、共に成長していくための“投資”と言える。
最低賃金引き上げの裏にある深刻な現実
県が最低賃金の引き上げにこだわるのも、山梨の労働環境が若者の目に魅力的に映るかどうかを真剣に考えるためだ。長崎知事は、山梨労働局に対して最低賃金の「格差是正」を求める異例の要請をしていた。労働局長に手渡した要望書の中で「全国的にも『地域間格差の是正』を重視する流れが鮮明になる中、本県だけが取り残されれば、地域の競争力は一層損なわれ、働き手の生活もさらに不安定化します」と危機感をあらわにした。より高い賃金を求めて人材が県外に流出してしまうのを防ぐために、最低賃金の大幅な引き上げを強く訴えていたのだ。

結果として、初の1000円超えを果たしたものの、長崎知事は「大いに不満」としてその水準に満足していない。物価上昇を背景に全国的な賃上げが加速する中、隣県の最低賃金にいまだ及ばなかったからだ。
ただ、最低賃金の大幅な引き上げは企業経営に大きな影響を及ぼすことから、県では中小企業の負担を和らげ、賃上げのための原資を確保できるよう、人材育成や設備投資など生産性向上に資する取り組みを支援。補助金の交付をはじめ、さまざまな支援策を強化している。
今年4月に受付を開始した「山梨県賃金アップ環境改善事業費補助金」では、中小企業の継続的な賃上げを後押しするため、予算の範囲内で最大1600万円の補助金を交付。また、社員のスキルアップを図る「やまなしキャリアアップ・ユニバーシティ(CUU)」の受講に対しても受講料の補助をしている。
企業と従業員が共に成長し、その成果を適切に分配する仕組みが整えば、山梨県が目指す「スキルアップ→売上アップ→賃金アップ」の好循環、いわゆる「豊かさ共創スリーアップ」の輪が各企業に広まっていくことになる。すなわち、県民一人ひとりの生活の質が向上し、地域経済の持続的な発展が期待できるということだ。
「給料が安いから県外へ行く」という若者の声を、山梨から消すことはできるのか。その答えは、時代に合わせて変化を恐れない、県内企業の勇気ある決断にかかっている。
文・中村麻衣子、写真・今村拓馬


