虐待の連鎖を断ち切る。全国初の児童虐待対応に特化した大学院が生まれたワケ
虐待は子どもの人生に深い影響を及ぼし、その傷は簡単には癒えない。
しかし、適切な支援があれば、
子どもたちは自分の人生を前向きに生きていくことができる。
そのために必要なのが、高度な専門性を持った支援者の存在だ。
2024年4月、山梨県立大学大学院に「人間福祉学研究科」が開設された。
虐待対応に特化した人材育成を行う大学院としては全国初の試みだ。
■この記事でわかること
✔ 山梨県でも児童虐待は増加の一途をたどっており、専門的な対応のできる人材の確保が喫緊の課題となっている
✔ 前例のない大学院開設でカリキュラムの構築に困難を極めた
✔ 施設で暮らす子どもの大学進学率は約20%で、全国平均の50%超と比べて大きな開きがある。適切な支援があれば、その差は縮まる可能性がある
✔ 虐待問題の解決には、長い期間と継続的な取り組みが必要だ
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30年で195倍。増加する虐待相談
児童相談所における児童虐待の相談対応件数は、2022年度に全国で約21万件に達し、統計を取り始めた1990年度と比べて約195倍に増加している。山梨県でも増加の一途をたどっており、専門的な対応のできる人材の確保が喫緊の課題となっている。
「過去に納得できないと、そこにばかり心を奪われて前を向けない。自分の将来の目標も設定できない」
虐待を受けた子どもたちの心の傷について、山梨県立大学大学院人間福祉学研究科の西澤哲特任教授はこう説明する。
全国初となる児童虐待対応に特化した大学院が設立された背景には、山梨県の深刻な課題があった。西澤特任教授が山梨県立大学に着任したのは2007年。当時、山梨県の子ども家庭福祉は全国と比べて、特に施設での養育や児童相談所の対応レベルには大きな差があった。
西澤特任教授がショックを受けたのは、県内の施設を訪問したときの出来事だ。
「あなたの担当の児童福祉司さんは誰ですか?」と尋ねたが、子どもたちは「わからない」と言うばかりだった。児童相談所は子どもを施設に入所させるまでが主な仕事とされ、入所後は別の担当者に引き継がれる旧来の方式が続いていた。その結果、児童相談所運営指針で定められた児童福祉司による年1回の面接が必ずしも全ての子どもになされていなかった。
多くの施設では、食事や住まいを提供し学校に通わせて就職させるという基本的な対応に重点が置かれ、虐待を受けた子どもの心理的ケアの対応は十分とはいえなかった。
虐待専門の新しい大学院構想
転機となったのは、長崎幸太郎知事の就任だった。県内の児童養護施設を運営する社会福祉法人の理事長で、全国児童養護施設協議会の会長も務めた加賀美尤祥氏の働きかけもあり、専門性の高い人材育成の必要性が認識され、「やまなし社会的養育推進計画」(2020年3月)で専門人材の育成を推進することが明記された。
しかし、前例のない大学院の設立は一筋縄ではいかなかったという。大学院の開設に向けて調整にあたった県私学・科学振興課の松野聖貴さんは、「どのような学生を受け入れ、どのような教育を行い、どのような人材を育てるのかという基本方針の整合性を図るのに時間を要し、当初目指していた2022年度からの開設は2年後ろ倒しとなった」と振り返る。
認可申請にあたっても、日本に前例のない大学院として、どのようなカリキュラムとすべきか、多くの議論が重ねられ、ようやく2023年3月に認可申請書類の提出にこぎつけ、その年の9月に文部科学大臣からの認可通知が届いた。
完成した大学院のカリキュラムは週1回の実習と、その振り返りを行うスーパービジョンを組み合わせることで、理論と実践の架け橋を目指す。また、夜間や土曜日の開講、オンライン授業の活用により、現職の福祉職員も学びやすい環境を整えている。
このような充実した教育内容と現場の実践を重視する姿勢は、多くの関係者から注目を集めることとなり、2023年10月に開催したキックオフイベントには約60名が参加した。
キックオフイベントの準備に奔走した県立大学池田事務室長の野中浩さんは「志望者が集まるかずっと心配でしたが、このイベントが盛況だったのでほっとしました」と話す。野中さんによると、イベント後には入試への問い合わせが寄せられ、定員5名に対して14名の応募があった。
「専門性の高い人材育成への期待の高さがうかがえました」(野中さん)
現場の課題に向き合う
同大学院の最大の特徴は「課題解決型」であることだ。従来の大学院が広く社会福祉全般を扱うのに対し、虐待という具体的な社会課題に特化したカリキュラムを組んでいる。
「虐待を受けた子どもへの支援は、通常の社会福祉士の教育だけでは対応できない」と西澤特任教授は指摘する。子どもとの面接一つとっても、誘導的な質問を避け、子どもが自由に話せる環境を作る高度な技術が必要となる。また、虐待する親自身も過去に虐待を受けているケースが多く、家族全体を理解し、適切な支援につなげる専門的な視点も欠かせない。
そのため教育体制の構築も大きな課題となった。虐待問題に特化した専門教育を行うため、既存の学部教員だけでは対応が難しく、西澤特任教授を含め、3名の特任教授を新たに採用。子ども家庭福祉、保育・幼児教育、ソーシャルワークの3分野の専門家を揃え、実習指導や講義を担当する教員を含めると総勢21名という手厚い教育体制を整えた。
解決に40年。世代を超えて続く虐待の連鎖
「一番信頼できるはずの親から暴力を受けることによるトラウマは、事故や災害によるPTSDのレベルにとどまりません。その子どもの生き様、生き方にも影響を及ぼします」と西澤特任教授は言う。
多くの子どもは、その体験を心から切り離して生きるか、親への強い憎しみを抱き続けるかの二択を迫られる。しかし、それは結果として子どもの人生に深い傷跡を残すことになる。
「親もまた、困難を抱えて大人になってきています。たとえば『お母さんもおばあちゃんから虐待を受けて育った』というように、家族の歴史の中で理解できるようになると、ある程度、自分の状況を受け入れられるようになる。『お母さんは お母さんの人生があって、僕は僕の人生がある』と考えられるようになると、将来の目標も持てるようになる。するとおもしろいことに、大学に行きたいという子も増えてくるんです」
実際、施設で暮らす子どもの大学進学率は約20%で、全国平均の50%超と比べて大きな開きがある。適切な支援があれば、その差は縮まる可能性がある。
しかし、虐待問題の解決には長い時間と継続的な取り組みが必要だ。
「アメリカでは1960年代に虐待が社会問題化し、対応体制の整備が進められました。それでも通告件数が減少に転じたのは2000年代に入ってから。実に40年近くかかっています」と西澤特任教授は説明する。
日本は1990年代になってようやく虐待が社会問題として認識され始め、2000年に児童虐待防止法が制定された。「日本はアメリカのような社会資源の投入もできていない。問題の収束には2050年くらいまでかかるのではないでしょうか」
虐待問題の解決に向けて
第1期として学ぶ院生の一人は、県職員として児童相談所での勤務経験を持つ。大学院の実習先施設は子どもの定員が6名で、勤務経験のある施設と比較しても少人数で手厚い支援を行っていたことが印象的だった。
子どもたちは誰かに見てもらいたい、話を聞いてもらいたいという思いを強く持っている。しかし職員の数が少なければ、そうしたニーズに十分応えることができない。
「虐待が急にゼロになることは難しい。でも、目の前にいる子どもたちの生活が少しでも良くなるように、一人一人に合わせた支援を続けていくしかないと思っています」
世代間連鎖を断ち切る
院生は山梨県立大の大学院の設置を人材育成の観点からも評価する。
「介護や精神保健、生活困窮など、社会福祉を幅広く学ぶ学部では、虐待対応について学ぶ時間は限られています。でも大学院では子どもの心理から家族支援まで、虐待問題に特化して学べる。この連続性は、将来、児童福祉の現場を目指す学生にとって大きな意味があると思います」
一方で、理論と実践の間にあるギャップにも直面している。
「大学院で学んだことが、すぐに実践で活かせるかどうかは分かりません。でも、子どもや家族への理解を深め、より良い支援ができるよう、学びを重ねていきたいです」
虐待を受けた子どもに適切な養育と心理的ケアを提供し、健全な大人へと成長を支援する。そうした取り組みの積み重ねが、虐待のない社会への第一歩となる。西澤特任教授は次のように言う。
「虐待の世代間連鎖を断ち切ることが重要です。虐待を受けた子どもたちや、虐待をしてしまう大人をどう理解するか。それは非常に複雑で重要な問題です。深い人間理解と、相当の努力が必要となります」
児童虐待という深刻な社会問題に向き合い、その解決に貢献する人材を育成する。山梨県立大学大学院人間福祉学研究科の挑戦は始まったばかりだ。
文・筒井永英、写真・今村拓馬