富士山の悲鳴が聞こえませんか?山梨県が登山鉄道を検討する真意とは

10年前、富士山は世界遺産に登録された。彼方に見える勇姿は万人が認める美しさだ。
一方、五合目に至る道路は渋滞し、駐車場も順番待ちしている。山道は大量の登山客であふれ、ゴミを捨てていく人も後を絶たない。自然の力ではどうにもならないところにきている。

富士山が悲鳴を上げている。
山梨県が登山鉄道を検討する理由が、
そこにある。

大量のCO₂、低満足度、地元に利益がない…

 富士山が世界遺産に登録されたのは2013年6月。外国人観光客を呼び込むインバウンド政策も重なり、富士山の来訪者は大幅に増加した。

コロナ禍でいったんは減っているが…

 コロナ禍以前は、富士河口湖町から五合目までに至る富士山有料道路(富士スバルライン)は、観光客を乗せたバスやマイカーで大渋滞し、駐車場に入るのを待つ車がずっとアイドリング。五合目には電気と上下水道がなく、重油や軽油を燃やして、インフラを確保している。水や燃料を運ぶ車や、ごみやし尿を運ぶ車が頻繁に行き来しないといけない。

五合目は大混雑している(山梨県提供)

 と、ここまで書いただけで、いかに富士山で大量のCO₂ガスが排出されているのかが想像できる。

 五合目から山頂をめざすと、登山道は人、人、人……。登山道から目を逸らすと、ペットボトルやお菓子の包装紙、さらには富士登山のシンボルである金剛杖などのゴミがあちこちに散乱し、ガイドやレンジャーたちは毎回大きなゴミ袋を持って下山している。ご来光を見ようと前日に一泊する山小屋ではゆったりと食事を楽しむ暇はなく、眠るスペースは老若男女が雑魚寝している……。

山頂付近はご来光を待つ人たちで埋め尽くされている(山梨県提供)

 山梨県地域ブランド推進グループの柏木貞光・政策推進監は「コロナ禍以前の富士山観光は、『オーバーツーリズム』と言ってよいほど人があふれ、自然環境や景観などにさまざまな悪影響が出てしまい、多くの方が期待するような富士山の雰囲気からはかけ離れた状況でした。富士山の地元の人たちにとっても負担が増えるばかりでリピーターが増えずに継続的な利益を生み出せない『ゼロドルツーリズム』になっていました」と話す。

※富士山が世界遺産登録されるまでの詳細はこちら

県地域ブランド推進グループの柏木貞光さん 

ユネスコから突きつけられた「宿題」…

 富士山が世界遺産登録されてから、県はどう対応してきたのか振り返ってみる。

 富士吉田市で生まれた柏木さんは、幼いころから生活の中にはいつも富士山が存在していた。山梨県庁の職員になり、富士山が世界遺産に登録されたあとの2014年に富士山保全推進課(当時の課の名称)のリーダーになったのだが、思わぬ“重大任務”が待ち受けていた。

 一般的には、世界遺産に選ばれてめでたしめでたし、と受け止められているが、実は違う。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は富士山を世界遺産に選んだ理由として「富士山は信仰の対象と芸術の源泉だ」という点を挙げていた。このため、「今後対応すべきこと」として、日本側に宿題を課していた。

ユネスコからの勧告を和訳したもの

 わかりにくい文章だが、よく読むと2つのキーワードに気づく。

キーワード1:神聖さと美しさ

 1つ目のキーワードは「神聖さと美しさの共存」だ。対策を検討する専門家たちは信仰の場としてふさわしい景観が必要だという意見だった。親から「富士山=信仰の場」と教えられて育った柏木さんにとって納得感がある議論だった。

 山梨県は2016年、静岡県と共同でユネスコに報告書を提出した。その中で、「人と富士山が持続可能な良好な関係」になれるように、という思いを込めて、五合目の将来図を載せた。木々に囲まれた神社だけを残し、店舗などのサービス施設は一段低い場所に集約するイメージだった。

山梨県「富士山四合目・五合目グランドデザイン」(2016年)から抜粋

「現状の景観は建物に統一感がないうえ、神社が建物の奥にあって信仰とか神聖さも感じにくい配置になっています。その課題を解決するためにイメージ図をつくりました。店舗をどのような建築にするのがいいかは意見が分かれるとは思いますが、ひとつの方向性を示したつもりでした」(柏木さん)

 しかし、五合目の店舗は現状、県有地の上に私有の建物が建っている。店舗の立て替えには、店舗を営業する人たちの協力が欠かせない。富士山山体は国立公園なので、区画整理などで適用される都市計画法は使えない。「イメージ図に現実味があるかと聞かれたら、“ほとんどない”と答えるしかない」(柏木さん)というのが実情だった。

 県は大規模修繕の際に景観に配慮するようガイドラインを作り、店舗を含むすべての関係者が参加する協定を結んだ。しかし、ガイドライン作成後、大規模修繕を実施した施設はまだない。

キーワード2:来訪者管理戦略

 2つ目のキーワードは「来訪者管理戦略」だ。

 県は1994年から、富士山の自然環境を守ろうと、富士スバルラインのマイカー規制を始めた。クルマが減れば、結果的に来訪者数も抑えられると期待されたが、来訪者は先ほどのグラフでわかるとおり、まるで減らない。理由は、マイカーは減っている代わりに規制対象ではない大型観光バスが増えているからだ。

 来訪者が増えれば、ごみ処理などに車や特殊な設備が必要となるので、環境に悪い影響が増える。ガイド役などの人手も足りず、軽装で山頂をめざす人や登山道で仮眠する人が増え、人命の危険を心配する必要すら出てくる。

そして生まれた「富士山登山鉄道構想」

 来訪者の満足度を上げ、環境にやさしい持続可能な富士山との関係をつくりたい。この思いから、県は有識者でつくる検討会をつくり、五合目までの新交通システムの検討を始めた。ポイントは、① 来訪者数を適正にする ② CO₂ガスをはじめとする有害物質を排出しないなど環境にやさしい ③四季を通して富士山の魅力を堪能できる、の3つだった。

 現状(富士スバルライン)とは違うルートも検討されたが、新たな開発を伴うことから環境面を考慮して、富士スバルラインをどう活用するかに議論は集約された。ではどんな交通手段にすればいいのか――。

 有識者会議は、冬も通行可能なシステムとして、普通の鉄道、ラックレール式鉄道、LRT(次世代型の路面電車)の3種類を検討し、振動が少ないなど快適なことやCO₂排出量が少ないなどの理由で、LRTが最適と判断した。鉄道なら来訪者の上限が決まるので、現状より充実した観光サービスを提供できる。さらに、鉄道を動かすための電力が敷かれれば、五合目のインフラ整備も進み、より快適な富士山観光が楽しめる。

 2021年2月に有識者会議がまとめた「富士山登山鉄道構想」によると、1編成の定員は120人。麓から五合目(上り)までは52分、五合目から麓(下り)は74分で行き来できるようになるという。

 構想が発表されると、「富士山観光の弾みになる」という賛成意見の一方で、有識者会議の中核に地元自治体関係者が入っていなかったことから「地元をないがしろにしている」などと批判の声が上がった。

 長崎幸太郎知事は批判に対し、「登山鉄道構想は、しがらみのない有識者に、実のある議論を進めるためのたたき台として策定いただいた。構想の前提として、環境保全と地元の合意は『一丁目一番地』だ。そのうえで新たな時代に対応し、観光地を廃れさせない方法を考えないといけない」と話し、富士山観光をいまより高付加価値化するために、多くの人たちが議論したらいいという考えだ。

ポストコロナの「新たな旅のカタチ」が追い風に

 観光事業者らには、これまでの事業の成功体験があり、ビジネスの根底を覆す観光客の抑制には大きな不安を抱える。県も2021年2月に構想を発表したものの、コロナ禍もあって構想の具体化に向けた大きな動きをできずにいた。

「しかし、コロナ禍で観光のあり方も大きく変わりました。密になるのを避けて、より価値が感じられる観光が欠かせなくなってきました。もうコロナ前には戻らないでしょう。それに呼応する形で、店舗主や事業者の皆さんも、これまでと違う危機感を感じているのではないでしょうか」

 2014年から県庁職員として富士山にかかわっている柏木さんは、そう肌感覚の変化を話す。

山頂近くの山小屋は就寝スペースの両側を板で間仕切りした(山梨県提供)

 コロナ禍を受け、雑魚寝が当然だった山頂近くの山小屋は、カーテンや板で就寝スペースを間仕切りするなどの対策をとった。結果、客数は減る。極端な値上げもしにくいので、売り上げも下がる。

 その対策は、来訪者1人あたりの消費額を上げるしかない。客単価を上げるにはサービスの質を上げないといけない。電気や水もない環境で、増え続ける来訪者にどれだけ客単価アップに見合った高度なサービスを提供できるのか……。富士山観光はいま、曲がり角に差し掛かっている。

 長崎知事はこうも話している。

「登山鉄道についてYesかNoの二者択一ではなく、地元の経済・観光業にとってどうしたらいいのかをみんなで丁寧に議論したい。そうすれば、『やっぱり鉄道がいい』という結論になるんじゃないかという予感もあります」

 柏木さんも「ポストコロナ時代の観光は激変するでしょう。現状のままでは、富士山観光は廃れていくかもしれません。富士山登山鉄道はその対策のひとつとして有力なアイデアだと思います。鉄道なら、登山者の事前登録や登山のマナーやリスクを車内でレクチャーすることもできます。人の動きが急回復する中、真剣に議論を進めなければならないと思っています」と話す。

 結論ありきというわけではない。ただ、早く動き出さなければ他の観光地に先を越されて、富士山観光の未来はないのも確かだろう。

 山梨県は2023年4月、県庁内の組織改編をして「富士山登山鉄道推進グループ」を新設した。県は大きく舵を切る姿勢を明らかにした。

 耳を澄ましてみる。
 富士山の悲鳴は聞こえていますか。

(肩書は2023年3月末現在のものです)

文・松橋幸一 写真・今村拓馬(一部クレジットがあるものを除く)

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